あー、どうしてこんな日まで暑いのか。
 四季のある日本において、暑さに耐性が付く前に秋を迎えるのが常なんだぞ。
 茹だるようなこの暑さ、日本人には酷というものだろう。
 終いにゃ「セミになりたい」なんぞとのたまう輩も出るのだ。
 そんなバカに対して、いつもならつまらん反論をするところを「あー分かる」なんつって。
 夏はどうしてこんなにもやる気を削ぎ落としていくのか。
 ……いや、夏たるもの暑いのは仕方ないことくらい分かってる。
 だけど許せないのは、今は夜だぞ?
 少しは涼をくれたって良いじゃないか。
 少しは加減しろよ、夏。
「だー、イラつくなぁ」
 さて、夜だというのに炎天下、夜道を往きます土の道。
 涼といえば、私はこれだ。



「ふぅーっ」
 川に足を降ろし、冷たさにぶるっと身震いした。
「あー、やっぱこれだわ。田舎サイコーっ」
 川まで伸びる石段に座り、足先だけをぽちゃりと冷やす。
 はたしてこれは田舎住まいの特権なのかはさておいて、これがあるからやっぱり夏も捨てがたい。
「おっ、ホタル飛んでるじゃーん、明るーいっ」
 いやはや、風情がありますなぁ。
 ほうっとホタルを眺めながら手を後ろに付くと、持ってきたバッグに触れた。
「……はぁ」
 嫌なことを思い出した。
 川までやって来たのは、確かに涼みにきたというのもある。
 しかしそれだけではない。
 苛立ちを抑え、すっきりとやるべきことに向かうためだ。
 ……それにしても、思い出してみれば、奈落へ叩き落された感覚だ。
「……どうして私なんだよ。バーカ。むせきにんー。ちゃらんぽらんー」
 文句を言いつつ、ぴちゃぴちゃと川面を蹴って遊ぶ。
 川に映る月は美しいが、ホタルの光もまた趣があるが、ゆらゆら揺れて不安定。
 まるで私の心のようだ、みたいな。
 過大評価、あんな綺麗じゃありませんよーだ。
「ほんとーにさぁ。断れなかった私も悪いけどさ。そりゃー私はそういうとこありますけども」
 ぶつくさ独白。
「しまいにゃ泣きますよ。私には才能なんてないんだー、その上で面倒なヤツなんだー、死んでやるー」
 本当にその気がないにしろ、泣きそうではある。
 はぁっ、と石段に横に寝転がってみる。
 石段はほんのり暖かい。
 優しい温もりではあるにしろ、やっぱり夏場にゃただ暑い。
「あぁぁー、誰か助けてー」
 見上げる夜空も、ぬるい夜風も、夜の虫すら励まさない。
 いと虚し。
「熱中症で死んでやるうーちくしょー」
 言いながら、「すぐ死ぬとか言うのは悪い癖かな」なんて、現実逃避の議題を浮かべた。
 すぐさま議題は却下して、目を閉じ思考の海へ逃げ込んだ。
 こんな場所では本でも読んでさ、ひゃっこいジュース買ってきてさぁ……。
 ぬるくならないように川で冷やして…………。
 そんでメイドバイ私のだっさい和歌でも詠んで、そんでからさー………………。



 頬に冷たいものがくっつけられて、飛び起きた。
「ひゃっこ!?」
 頬をさすり、ぼうっとする頭で何をしてたんだったか考える。
 あれ、私、寝てた……?
「おいお前。真夜中だってのに、んなところで寝こけんな。アホか」
 呆れ声が背後から飛んでくる。
 明らかに不機嫌そうな低い声に、ぎくしゃくロボットみたいにぎこちなく振り返る。
「ご、ごめんなさ、い……?」
 見てみれば、同年代かそこらの男の子に見える。
「ほれ」と男が缶コーヒーを差し出してくるので、恐る恐る受け取った。
 甘ったるいコーヒー、私の大好物。
「ありがと?」
「ま、気にすんな」
 あれ、さっきと違って、今度は笑顔を浮かべてくれた。
 悪いヤツじゃないのかも。
 ……もし悪いヤツだったら、真面目に私、終わってたかも。
「よいしょっと」
 私の隣に男は腰掛け、勢いよく川に足を入れる。
 ぴしゃーん。
 まだ水に濡れてない箇所に跳ねてびくっとする。
「ひゃっこい!」
「ああ、だな」
 にししっ、と男は笑うと、まだちらほら飛んでるホタルに目を向けた。
 自然と私も同じ方向をじっと見る。
「なんか悩んでるな、お前」
「え、分かるの?」
「つーか、なんつーか。聞こえてたぞ」
「へ」
「独り言」
「うわぁぁ!?」
 最悪だ!
 えーっとえーっと、何言ってたっけ、なんて取り繕おう?
「ほ、ほんとは死にたくないからね」
「なぁんだ、手伝ってやろうかと思ったのにな」
 本気か冗談か、さすがに後者だとは思うのだが、彼は悪戯っぽく口角を上げた。
 頭に指を当て、じっくり思案してみる。
「……えーっと、独り言、君の家まで届いてたり?」
「この辺からよその家まで届くかよ。カラオケしてたわけじゃあるめえし」
「だ、だって、じゃあ」
「通りすがりさ。ま、通りすがった身としちゃ確かにうるさかったがな」
「ごめん……」
「ちなみに、メイドバイあんたの和歌ってのは? もういくつかあんの?」
「声に出てた!? サイアクだぁっ!」
 顔から火が出るよ!
 真夏のお天道さんもびっくりの熱量出せる、出せちゃう!
 もう立ち去っちゃおうか!?
 紅潮しているであろう顔を隠す。
 それと同時、顔と覆った手に水が掛かった。
「ひゃっ!?」
 どうやら犯人は隣の彼だ。
 川の水をすくって私の顔に掛けてきたのだ。
「くっ、あはははははっ!」
 そしてなめらかに抱腹絶倒。
 足をばたつかせて大爆笑するものだから川の水がばしゃばしゃ跳ねてる。
「ちっとは冷えたか?」
 にたにたしながら男が問う。
 真っ赤でこくこく頷くと、「そか」とだけ呟いた。
 彼は川につけた足で立ち、中の丸い石を踏み歩いて私に手を差し伸べた。
「よしっ、何があったか言ってみろ」
 にたにた笑って蛍火を背に、そんな幽遠気取りの手を取った。
 引っ張られて立ち上がると、石の丸みがこそばゆい。
「うん、ありがとね」
 すでに独白を聞かれるなんていう恥をかいた後だ。
 更に恥をかいたって五十歩百歩、すなわち似たようなもの。
 この際だ、行けるとこまで行ってやる。
「私さ、本を読むのが趣味なんだ。ついたあだ名は文学少女」
「へーえ」
 彼はホタルを手で追いかけて遊んでいる。
 聞く気あるのだろうか。
「クラスで本好きは私だけでさ。で、クラスで劇をやることになったの」
「劇、ね」
「うん。そりゃー他の皆よりは色んな物語を知ってるけどさ。戯曲作家に私を抜擢しないでよーもーっ!!」
「ぎきょ……なんだって?」
「つまり台本作りの係ね」
「へえ、大役じゃん」
「うん、そこまでならまだいいよ、いいさ、それくらいならさー! あー! 腹が立つなあ!」
「思ったより根は深そうだな」
 そりゃもー深いですとも、不快ですとも!
「なんかさー! 私への要求がさー、とにっかく私のポリシーに反するワケ!」
「どんな」
「何よりまず、『なんか有名っぽい話メドレーみたいな感じ?』って要求なんだけどさ!」
「うわ、バカみてーな提案」
「でしょ!? しかもこの提案したの誰だと思う!? 担任の先生だよ! 教科は国語! マジありえない、国語教師降りろよ!」
「はははははははっ!」
「笑わないでよー……!」
 涙目で睨む。
 じんわり滲んだ視界にちらほら光が飛んでる。
 綺麗な景色で感動物だが、それで矛が納まると思うなかれ!
「先生の言うことだし、先生怖いし。反対なんてできないじゃん」
「いいじゃん、反対すれば」
「そりゃーさすがの私も声を小にして反論したよ!」
「大にしようぜ」
「怖いんだってばー! そりゃボリュームの抓みも下げるってもんよ!」
「分かった分かった。で、なんて反論したんだ?」
「『それはおかしいです、物語の一つ一つは一文字残らず総て合わせて一作品、一部のみ抜粋しまくるなんて冒涜です!』って」
「堅苦しいな」
「私はどうせ頑固ですよーだ」
 ぽちゃん、水面を蹴ってホタルの群れへ飛ばす。
 当たることなく水に映った光が揺れるだけ。
「でも先生も先生だってっ! なんて言ったと思う!?」
「なんて言ったんだ?」
「『まあいいんじゃないか? 減るもんじゃなし』」
「減るもんではないな」
「減るよー! 私の精神が磨耗されてポッキリ折れるよ! 心無い一言で私のダムは決壊だ! ざっけんな先生こんちくしょー!」
「で、それに対する反論は?」
「『は、はい』」
「負けてんじゃねえか」
「うう、負けましたよ……」
 川に膝を付く。
 そして飛び上がる。
「ひゃっこいっ!」
「座っちまうか?」
「それはちょっと……」
「ははっ、そうかい。で、他には何かあんのか?」
「あるよあるよ山のように!!」
「おー、聞かせて聞かせて」
「今度はさー! 『源氏物語とか入れようぜ、それからアレ、シェイクスピア!』って!」
「シェイク、何?」
「作家の名前! イングランドの人! 源氏物語は! 平安時代! 紫式部っ!」
「分かった分かった」
「何がタチ悪いってさー! 何点かある!」
「よーし順番に言ってけ」
「まずは! どんな和洋折衷だよ!?」
「よしきた」
「なんで源氏物語は作品名で、シェイクスピアは作家名!?」
「もっとこい」
「シェイクスピアって、どれやりたいんだよ! 作品名で言え! はっきりしなさい!」
「そら、ぐーっと」
「源氏物語はまだ読んだことないんだよ! 事情察しろー!」
「それは勉強しろ」
「殺生な! どんだけ長いと思ってんの!?」
「はいはい、分かった分かった、酷い案だねー。まあまあ落ち着けよ。座って話そうぜ」
 ぺたんと座る。
「ひゃっこい!」
 口車に乗ったばっかりにこの始末。
 下半身が水に埋もれる。
 冷たさに慣れて身震い。
 はっはっはとわざとらしく彼は笑うと、隣に抵抗なくどっしり座る。
「で、事情は数多とあるだろうが、最たる不満点はなんなんだ?」
「うん。あのね――」
 川の浅瀬で体育座り。
 蛍を眺めて、たそがれて。
 搾り出してはぽつりと話す。
「私、本は読むけど、お話書いたことないんだ」
「え、それなのにギキョクサッカ?」
「なんだか断れなくってさー。期待されちゃったら、裏切りたくなくて」
 膝の間に顔を埋めて、足の間の川を見下ろす。
 闇が広がるばかりで何も見えない。
 確かにゆらめくものは、なんとなくだが見えるのに、整然と並ぶ石は見えない。
「で、時間が経つと期待はもっと膨らんでさ。台本は端の端までまっさらなのに、当の私は欺瞞で固めて胸なんか張っちゃって」
 ほんとに私ってバカなんだ、とやせ我慢の笑顔を浮かべる。
「分かってるの。結局のところ一番悪いのは私なんだ。頑固なこと言ったのも、きっと戯曲作りから逃げたかっただけ」
「そっかそっか。分かってるなら、謝っちゃおうぜ」
「……いまさら、何て謝るの」
「素直に謝りゃいいじゃねえか」
「で、でもさー……」
 缶コーヒーを両手で持って、うじうじ指で弄ぶ。
「文句も言うけど、最後にゃ自分が悪いって言えたろ。あんたなら余裕じゃないの?」
「う。普通だと思うけど……」
「はははっ、その当たり前に辿り着けねぇヤツの多いのなんのって」
 そんな大仰なスローガンは立てちゃいないし、意識したこともない。
 ……私は、そんなに出来た人間なのだろうか。
 出来もしない仕事を請け負い、文学少女気取って皆にゃよく分からないこだわりで文句言って、その上頑固なことに私は上辺でしか折れずにイライラを抱えて。
 こんな人間を『出来た人間』だなんて言ってたら、出来た人間なんて、ほんとに大したことない。
 出来損ないって、どんなひと?
 私じゃないの?
「なんで段々沈んでるんだよ」
「……端的に申し上げますと、ネガティブな私うぜー、って」
 口にしてまた落ち込む。
 へこんだことが原因で更にへこむとは、なんと厄介な悪循環。
「大丈夫大丈夫、なんとかなるって」
「ん。……んな無責任――」
 言いながら彼の顔に目を向ければ、奇妙な既視感に駆られた。
 あれ、なんだろう。昔、彼と会ったことが――
「どうした?」
「なんでもないよ」
「変なヤツだなー」
 ああ。
 なんだか彼の笑顔を見ていると、勇気が溢れて胸がすうっと軽くなる。
 そんな気がするんだ。
「はあっ、うん、なんとかなりそう!」
「よし、それでこそお前だ。明日の計画は!」
「謝る! 以上!」
 ふうっ、と後ろに身体を倒す。
 顔が川に埋もれぬよう、頭だけちょっとだけ浮かす。
「あぁー、ひゃっこーい!」
 吹っ切れたら笑えてきた。
 全身を水が撫でていくと、逆に『夏だなぁ』と思う冷たさを感じる。
 謝ればいい。そんな簡単な答えにどうしても辿り着けなかった。
 無責任だと後ろ指を指されても、そのたんびに謝ってやる。
 それが私の成すべきこと!
「おい、さすがに風邪ひくぞ?」
「あははっ。大丈夫!」
「つか、年頃の女子がそんな薄着で濡れるんじゃねえ」
「人通りないし問題なーし」
「ったく、俺だって健全な男子だよーっての」
「ねえねえー」
「んー」
「かんぱーい!」
 やっと缶を開けると、飲めそうな姿勢になるくらいに上体を起こす。
 彼は呆れた笑みを浮かべて、ホタルの群れに視線を戻した。
 私もそっちを眺めつつ、一口。
 子供の好きそうな甘いコーヒーが、口のなか喉の奥までを塗らしていく。
 喉が乾きそうで、夏にゃやっぱり合わないかも、なんて思う。
「ホタル綺麗だねー」
「だな」
「昔もこうして眺めたこと、あったよねー」
「ああ。だな」
「その時は泣いてたの逆だったねー」
「ほっとけ。元気になったなら帰れ帰れ。もう夜も遅いぞ」
「んー」
 そうしようかな……。
 缶コーヒーをぐびぐび飲み干すと、びちゃんと音を立てながら立ち上がる。
「分かった、じゃあねー!」
「あー、元気でなー」
 石段に上がると、蒸し暑い夏が襲い掛かった。
 でもこれもまた一興。
 趣、あるじゃないか。
 この暑さは夏にしか味わえない貴重な宝だ。
 涼む行為も夏の特権。
 考えながら空き缶を見て、「あっ」と振り返る。
 そこにはホタルの群れしか居なくて、彼は姿を消していた。
 そんな気がしたから驚かない。
 私はにんまり笑うと、缶を掲げて手を振った。
「私の好み、覚えててくれてありがとー!」
 さあ、帰ろう。
 決意が揺らぐ前に、早く差せ差せ、夏日よ差せ!
 カバンを持って石段を登りきる。
「くしゅんっ」
 あー。
 ほんとに風邪ひかないように、気をつけなきゃ。
 水分を余すことなく吸収し切った服はずぶ濡れ。
 髪の毛もまた然り。
 彼は今、ホタルの辺りか天国か、どこかで私を見て『バカやってら』って笑ってるのかな。
 今度にでも感謝の印に、友の墓参りなんて悪くないかも。
「……くしゅんっ!」
 考え事は身体を拭いてからにしよう。


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