「もし、そこの君」
 声は、木々が歌うさざめきの間から聞こえてきた。
 外していた丸眼鏡を掛け直し、声がした方向を振り返る。
「はい?」
 立っていたのは、一人の男。
 古めかしい着物に下駄という、いかにも風流人といったような風体だ。
 カランコロンと気味好い音を立てながら、落ち葉を踏みつつ歩み寄る。
 不思議と惹かれる笑みを湛え、着物の袖に手を隠し、時代錯誤の空気を漏らす。
「ここから先、どうすれば山道に出るんだったかね」
「ここも山の麓といって差し支えありません。こちらのほうへ真っ直ぐと」
 指差し道を示してやると、人懐っこそうな笑みで「ありがとう」と言い、そちらへ歩き出す。
 不思議な魅力、あるいはミステリアスとでも言いますか――それは時に、引力のように惹き付けるものがあるのです。
 カランコロン、カランコロン。
 歌うような足音に耳を傾け。
 自然とそちらに歩みは進む。
 私の興味は彼に向く。
 一つ違えば、あるいはすでにか、ストーカーのようにひそやかに、彼の後ろをつけるのです。



 控えめに言いまして本の虫。
 大げさに言いまして文学少女。
 活字とあらば私の土俵。
 本好きを集めて束ねて集大成。
 それが私なのでございます。



 彼の者は相も変わらず、カランコロンと進み行く。
 こそこそ隠れて後追う私の、斯くも滑稽なものはそうなかろう。
 すっかり山道に足を踏み入れ、舗装された道は砂利道へ。
 昨晩降った雨のしわざか、ところどころが滑りやすい。
 進みにくさに悪戦苦闘を強いられて、見失うかと前を見る。
 すると男はこちらを振り向き、またもや笑みを絶やさず湛え。
「こそこそするより、いっそ堂々と行きやしませんか?」
 などと言うので、好意に甘んじ隣を歩む。
「山なんかに何の御用で?」
 私が問えば、情けなさそうに頬を掻く。
「落し物を探しにきてね」
「落し物とはなんですか?」
「わたしは感動を失くしたのですよ」
「感動を、とは、例えば心に残る書物などですか?」
 問えば彼は「かっか」と笑う。
「面白いが、それは違う。綾でもなければ比喩でもない、わたしは感動ができぬのです」
 感動できぬとは、なんと空虚な人生か。
 どんな顔をしていたのだろう、私を見下ろしまた笑う。
「そんな時は山に登って、町を見下ろし焦がれるのです。変わらぬものほど胸打つものはこの世に二つとあるまいよ」
「変わらぬもの。では先生はこの町の出ですか?」
「かっかっか。先生とはおかしな響き。これからもぜひそのように」
 大人の男を先生と呼ぶのは、癖でもなければ趣味でもない。
 しかしこの男に対しては、どこか『先生』が似合いそうと思い、口をついて出てしまった。
「質問には答えねばね。いかにも、わたしはここの出だ」
「そうでしたか。先生の幼き日の思い出と比べ、この町に変わりはありませんか?」
「何一つ変わりはしない。思い出にある通り、ここは永久にわたしの故郷だ」
 得意気に胸を逸らして言う先生は、どこかおかしいものがあり、思わず笑ってしまった。
「そうですね、まったくもってその通りです」
「君にとってはどうかな? 我が生徒」
 先生と呼んだ仕返しか、あるいはただ合わせただけか、私を生徒と呼んで先生も笑う。
「私は、まだ、よく分かりません」
「そうか。しかし直に分かる日が来る。胸を張りなさい、君の故郷はこんなにも素敵なところだとね」
 カランコロン、下駄の奏でに調子を合わせ、仙人みたいな笑いを交ぜて。
 おかしな人だと思いつつ、やはり私も笑うのです。



 山も中腹、今度は先生のほうから私に問う。
「何か好きなことはありますか」
 実に愉しそうに訊ねてくるので、がっかりさせたら申し訳ないと思いつつ問いに答える。
「本が好きです」
「ほう、本。どのようなものを嗜みますか」
「古今様々なものを読みます。流行りの文芸、古典、僭越ながら哲学書まで」
「それは大層面白かろう」
「ええ。しかし尚早だったのか、半分も理解できないこともあり、まだまだ勉強が足りません」
「文学に読み耽ることのどこにも尚早と思う理屈など入りはせんよ」
「そうでしょうか」
「いやしかし、確かに君は野山を駆けて蜻蛉を捕るより、静かに本を開き佇むほうが、可憐な花のようで美しかろう」
 言って先生は悪戯っぽく笑い、私の顔に目を向ける。
 むずがゆく感じ目を逸らせば、顔が火照っているのに気が付いた。
「おや、花が赤く染まっているよ」
「花も恥じらうのです」
「ふむ。なるほど、良いことを知った」
 からかわれているのだろうか。
 しかしそれ以上に追撃をすることなく、また「かっか」と高く笑う彼を見て、ほっと一息、安心するのです。
 これ以上に赤く染まれば、熱さのあまり倒れてしまうかもしれません。
 私はあまり褒められる人生を送ってはいなかったもので、褒められればすぐにこれです。
 叱られて育つような恥ずべき道ではなかったことも、蛇足ながら付け足しておきますが。



 頂上とはいかずとも、程よく町を見下ろすことのできる場所に出た。
 柵の向こう側、広がる町は、思ったよりも小さく、しかし大きく。
「いかがですか、先生」
「ああ。やっぱり、落し物はここで拾えたらしい」
 先生の目はより一層の輝きを増して、好奇心のままに遊ぶ少年のようだ。
「感動を取り戻したのですね」
 先生はにこりと笑う。
 今までのような雲の上の住人みたいな笑いではなく、ただ満足そうな一人の男の笑顔。
 夕焼け空に照らされて、朱色の波のように町並を染めた。
「先生」
「どうした?」
「先生は、風のような人でした」
「おや」
 先生は腕を組むと、例の笑い声を上げる。
「どのように?」
「飄々としていながら、時代錯誤な香りを持ちながら、どこか身近なお人です」
「ははあ、なるほど」
 実に愉快そうに口元を歪めて、また下界を見下ろす先生。
「実のところ先生の正体は、本当に風なのだと思います」
「ふむ。確かめてみるか?」
「いえいえ。私など夢見がちな文学少女、その妄想に過ぎません。それに、答えを知らぬ美しさもありましょう」
「なるほど。謎こそ美学と」
「その通りです。全てを語るなど、全てを見るなど、それこそ蛇足に過ぎません」
 持論ですが、と最後に付け足し、ぬるい風に揺れた髪を抑える。
「ならば名残惜しいが、然様ならば仕方ないね」
「はい。然様ですから仕方ありません」
 先生は片手をあげ、私より幾分高い位置の顔を目いっぱい歪め。
 私もそれに応え、片手をあげて横に振る。
「――蛇足とは思いつつも、最後に一つだけよろしいですか」
「うむ、なんだね。我が生徒」
 相変わらずにたにたとこちらを見る。
 私は丸眼鏡を外して、ぼやける視界で先生を見遣る。
「変わらぬ物の美しさ、とは、私にはまだ理解しがたいものがありまして」
「ふむ、そうか」
「それでもどこか、先生は未来永劫に変わらぬだろうと思ってみれば、存外可愛らしく思えました」
「わたしが可愛いと? かっかっか、これは傑作」
「そして可愛げがないことに、私も変わることはないでしょう。変わらず風を浴びるたび、この日のことに焦がれましょう」
 先生はまた一段と大きく笑う。
「困難な道ぞ。己を変えることなく生きるということは」
 戯曲のような調子で言う先生がおかしくて、私の口も緩むというもの。
「では、もし変わることがなければ、また先生にお会いできましょうか」
 先生は初めて呆気に取られたように、口を二本指が入るくらいにぽかんと開けた。
 さすがに面白く感じ、声をあげて笑ってしまった。
「その表情が見てみたかったのです」
「まったく、大人をからかうものではないよ」
「すいません。では、またどこかで。蛇足はこれにて終了です」
「然様ならば仕方ない」
「ええ、然様ですから仕方ありません」
 二度目の別れの挨拶を告げて、やっと背を向け歩みを進めば、一陣の風が吹き抜ける。
 ふと背後に目を向けてみれば、意外なことに先生はまだそこで、切なげに眼下を見下ろしていた。
 更に蛇足になりますが、門限に間に合わずこっぴどく叱られてしまい、山を見て頬を膨らませることとなるのは別のお話。


 目次
inserted by FC2 system