暗い山道を走り続ける。
 木の葉に遮られて月すら見えない山のなかは、酷く進みづらい。
 背後から迫る気配に怯え、恐れ、誰とも知らぬ敵から逃げ続ける。
 それは夜の蜘蛛として生きている私にとって、なんでもない日常だった。
 とはいってもここ数日は歩き詰めで、さすがに体力も限界だ。
 感覚のなくなってきた足が小石につまずき、前のめりに転んでしまう。
「くそっ……」
 起き上がろうと地面に手をつくと、不意に私の視界に蜘蛛が映る。
 常に降り注ぐ闇色と、八本足。夜の蜘蛛。
 私は他の奴らの目からは、こんな風に見えているのだろうか。
 頭をぶんぶん振って余計な考えを振り払うと、動かない足で尚も駆けだした。



  ―『夜の蜘蛛』―



 ふと気づくと、月明りの下、開けた草原に立っていた。
 この光がやけに久しぶりなような気がした。
 ずっと暗闇のなかに居たためか、こんな微かな明かりでも目が眩む。
 まるで太陽のように爛々と輝く月――
 星のひとつひとつがやけに明瞭で、思いがけず見惚れてしまう。
 煌びやかな満天だ。
「……はぁっ」
 途端に息が上がり、疲れがどっと体中を包む。
 さすがに無理をしすぎた。疲れないほうがおかしい。
 草原の上、仰向けに倒れ込む。
 私は、このまま死んでしまうのかもしれない。
 漠然とそう思うと、それも悪くないような気がした。
 誰かの手で討たれるよりも、逃げ延びた先でひっそりと……。
 もしここで果てたなら、私はあの昏い空に昇れるだろうか。
 こんな、糸ひとつ操れない夜の蜘蛛でも。
「……沈むのが似合いか」
 ぽつりと呟くと、頭のなかが睡魔に侵される。
 視界が黒に包まれると、もう瞼は重く閉ざされてしまった。
 私の前から光が遠のく。私の体が地へ沈む。
 冷たくて寒いと、そう思った。
 最期に見る夢は、どんなものだろう。
 そんなことを考え始めた頃だった。
「どこで寝ている」
 男の声がした。
 その声に覚醒して飛び起きる。
 声の主と距離を置き、刀に手を添えた。
 そこには、一人の男。
 長髪をひとつに結っていて、それは蛇の尾のように見えた。
 鋭い眼光が光り、じっと睨むようにこちらを見据えている。
「良い刀だ」
「うるさい、御託はいらない。あんたも私を殺すんだろう」
 そっと刀を抜き、男と対する。
 いつだって私はこの刀を振るい、自分の身を守ってきた。
 恐れられたって構わない。そんなのもう手遅れだ。
 しぶとく夜の蜘蛛が生き長らえるための、たったひとつの手だった。
 男はため息を吐くと、自分の刀の柄に手を掛ける。
 その所作はひどく手慣れていた。
「俺はおまえを殺さない。……と、口で語ったところで、信じてはくれないか」
 音もなく抜刀。
 月光に光る刀身はやけに美しく見えた。
 自分の刀を今一度、ぎゅっと握り直す。
 殺さなければ、殺される。
 だから私は、この男を殺さなければならない。
 死にたくないのならば、負けは決して許されない。
 しばらくは男と向かい合っていた。
 一分の隙もない、堂々とした佇まい。
 私がそこに動く。一陣の追い風が合図だった。
 斜めに落とした切っ先を、男に向けて切り上げる。
 男は難なくそれを避けるので、私の切っ先は空を切る。
 次ぐ男は刀の柄頭を私の腹に当て、ぐっと力を込めた。
 その衝撃に耐えられず、再び距離を置く。
 この男、本当に殺す気がないのか。
「馬鹿にしやがって……」
 そんな相手に負けてなどいられない。
 そう思った矢先だった。
 男は神速にて詰め寄り、私の眼前に迫っていた。
 その距離に、構えた刀も振るえない。
 男に切り上げられ、私の刀が弧を描いて空を舞う。
 地に刀が落ちる音がした。
 悔しく思うでもなく、ただ呆然としてしまう。涼しい風が私たちの間を吹き抜けた。
「おまえの負けだ」
 私は自分の手が信じられず、刀を落とした手を握ったり開いたりした。
「……さっさと殺せばいいだろ」
「言ったろう。俺はおまえを殺さない」
 その声が聞こえた途端に、全身の力が抜けた。
 男のほうへ体が無様に倒れ込んでいく。
 男は私を受け止めたようだ。
 私は、男の言葉を信じてなどいなかった。
 やはり私は殺されるのだろう。そう信じて疑わない。
 そう思うと、やはり私は心の底から想いが湧いてきた。
 死にたくないな、と。
 ほのかな思考は闇に呑まれ、意識が地に沈んでいった。



 目が覚めると、見知らぬ部屋のなかだった。
 古ぼけた畳。差し込む光は障子越しに淡く暖かい。
 起きようとして、やけに体が重たいことに気づいた。
 私はどうしてこんなところに……。
 思い出そうとすると、すぐに記憶が蘇ってきた。
 そうだ。私はあの男に負けたんだ。
「生きてる……よな」
 あの男は本当に私を殺さなかった。
 情けでもかけたつもりなのだろうか。
 だとしたら屈辱だ。
 今まで負けたことなんかなかった。
 それを疲れていたとはいえ、あんな男に。
 悔しさが込み上げてくる。
 しかし今は悔しがるよりも、ここがどこなのかを知らなければならない。
 心を落ち着けようと深呼吸をする。
 すると、どこからか香ばしい匂いがすることに気づいた。
 肉や山菜を煮詰めたような、良い香りだ。
 気づいてしまうと、今度は腹の虫が鳴く。
 ここは、あの男の家なのだろうか。
 警戒しながらも、香りのする戸に向かった。



 戸の先には、昨晩の男の姿があった。
 彼の目前にある囲炉裏が火を上げ、蓋のされた鍋を温めている。
 香りはあの鍋からしているようだ。
「起きたか」
 男は振り返りもせずに言う。
「聞きたいことがある。座れ」
「……腹なんか減ってないぞ」
「そうか。なら食わなくてもいい」
 余計な意地を張ったかもしれない。
 そう思ったときには遅かった。
 男を恨めしく思いながら向かいに座る。
「本当にいいのか」
「いらねえよ」
「そうか。それにしては、穴が開くほどに鍋を見ているが」
「…………見てねえ」
 名残惜しい気持ちになりながら、ぐっと目を逸らす。
 逸らすが、今度は腹が鳴る。
「腹、減っているだろう」
「減ってねえ! いい加減にしろ!」
 一度張った意地はなかなか取り下げられずに怒鳴り散らす。
 そもそも、私はこれまで誰にも頼らずに食い繋いできた。
 この男の施しなんかなくたって、どうとでもなる。
「そうか」
 男は短くうなずく。
 そしてただ、私をじっと見つめていた。
 居心地が悪くなって私は目を逸らす。
「……殺さないのか、私のことを」
「昨夜も言ったが、おまえを殺すつもりはない」
「なんでだよ。私のことを知らないってわけじゃねえんだろ?」
 私は国に追われるお尋ね者だ。
 ただ一人の味方もなく、全てを敵に回して逃げ延びてきた。
 私を知らない者が近辺にいるはずがない。
「知らん」
 しかし男は、さも当然のようにそう言った。
「……は?」
「だから殺す理由がない」
 本当に言っているのだろうか。
 私があまりに呆然としていると、男は息を吐いた。
「名前は何という」
「……本名は私も知らない。知朱と呼ばれているから、その名前を使ってるんだ」
「知朱」
「そうだ」
「知らんな」
「……冗談だろ?」
 私を知らない者と会うなんていつ以来だ。
 下手をすれば初めてかもしれない。
 私は命を狙ってくる者ではなく、私のことを知らない者に負けたのか。
 不幸中の幸いか。
「夜の蜘蛛って、聞いたことないか?」
 夜の蜘蛛は不吉だという。
 私を夜の蜘蛛と呼ぶ意味は、殺しても良い人間という意味だ。
 幼い頃、一人の人間を殺した。
 その人間は幼心に悪そのものに見えた。
 それが今では、私のほうが悪に見えるらしい。
「私は夜の蜘蛛と呼ばれ、夜の蜘蛛として生きてきた」
「殺しても良い人間か」
 男は憐れむように私を見つめた。
「ほんとに私のこと知らないんだな……」
「なんだ、知ってほしいのか」
「いや! いやいや、いい! 知らないならいい!」
「言ってみろ」
「話の流れ分かってんのかてめえ!? 分かってねえよな、おい!」
「試してみたくなった。俺がおまえを知ったとき、俺はおまえを殺すのか」
「人様の命を賭けて試すなよ」
「それもそうだな。ならばやめておくか」
 本当に知らないのだと思っていても、それでも私は信じることができなかった。
 その言葉を容易く信じるには、夜の蜘蛛を生き過ぎた。
「本当に食わないのか」
 男は鍋の蓋を開けると、ぐつぐつと煮えた肉と山菜が目に入った。
「俺を信じる信じないの話は置いておけ。今は生きるために食べておくことが肝要だ」
「……そこまで言うなら、食ってやってもいいけど」
 男のことを信じてはいない。信じられないのだ。
 しかし、こんなに美味そうな物を前にして逃げ出すことは、私にはできないらしかった。
 目の前に置かれた碗と箸を手に鍋を食べる。
 久しぶりの御馳走だ。
「……うまっ!」
 温かいものを食べたのはいつ以来だろう。
「そうか」
 男は先ほどまでと同じ調子でそう答えた。



 鍋の中身をまるっと平らげ、手を合わせる。
 腹が膨れると、今度は早く出なければと思い立つ。
 昨日追ってきたような刺客がいつ現れるか分からないのだ。
 もっと遠くへ逃げなければ。
「なんだ。行くのか」
「ああ。もう会うこともない」
「それはどうだろうな」
 男は私の刀を返してくる。
 それを受け取ると、私は外へ出る引き戸へ向かった。
「飯、ありがとよ」
 そう言い残して家を出る。
 もう日は高い。あれだけ山を走り回ったので、泥のように眠ってしまったようだ。
「……そういや、私、負けっぱなしのままだな」
 家を振り返って呟く。
 それがすこし癪だった。
 しかし、あれほど強い相手と一緒にはいられない。
 もし本当に私のことを知らないとしても、いつ私のことを知って襲ってこないとも限らない。
 早くどこかへ移動してしまおう。
 そう決めると、すぐそこに見えた森のなかへ入っていった。



 涼しい森のなかを歩いていて、すぐに違和感に気づいた。
 私は確か、山を登るように逃げてきたはずだ。
 しかしこの森は坂ではなく、どこまでも平坦に続いていた。
 私が昨夜気を失ってから、麓に連れてこられたかもしれないと思ったが、それにしては周りに山が見えなかった。
 山頂近くなのだろうと思い、すぐに下り坂に出ると思ったのだが……。
 そのせいもあり、自分がどこへ向かえばいいのか分からない。
 引き返そうにも、自分の辿ってきた道すら覚えていなかった。
 どうしたものかと思っていると、前のほうに開けた場所が見えた。
 引き返す必要はなかったらしい。
 ようやく森を抜けられると思って、その光を目指した。
 しかしそこに辿り着くと、見覚えのある景色が広がっていた。
「……あれ?」
 そこには平原と、ぽつんと建った小さな建物がある。
 さっきまで男と一緒にいたところだ。
 ぐるりと回って戻ってきてしまったらしい。
 もう一度森のなかに入って、真っ直ぐに進む。
 進むが、やはりまた同じ場所に出てしまった。
「…………」
 私の進み方が悪いのか、しかし二度も同じところに出たとなると偶然ではないように思う。
「どうなってんだ……」
 その場に座り込む。
 何も進んでいないのに、もう足が疲れてしまっていた。
「早かったな」
 と、男の声がする。
 男が私の前に立ち、手を差し伸べていた。
 私はその手を無視して立ち上がる。
 居心地悪くしていると、男が言う。
「俺の知り合いが、明後日にでもここにくるはずだ」
「……だからなんだよ?」
「そいつに案内してもらえ。ひとまずはここから出られるだろう」
 そう提案してくれるが、私は首を振る。
「そいつが私のこと知ってるかもしれないだろ?」
「それはない」
 きっぱりと断言された。
 しかし納得がいかない。
「明後日になれば分かる。知朱のことを知っていたとして、ただで斬られるつもりはないのだろう」
 そう男が言うと、小屋のほうへ歩いていく。
 私はどうするべきか考えながら立ち尽くしていた。
 しばらくして男が思い出したように振り返る。
「そういえば、まだ名乗っていなかったな。俺は蛇火。よろしく頼む」
 そう言って、私のことを待つようにそこに立ち続けていた。
 私はもう一度森に入る気も失せ、しばらくしてから根負けしたように蛇火についていった。



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