早起きしすぎてしまった。
 寝直そうという気分にもなれず、外を歩いていた。
 のんびり星空を眺め、朝を待つ。
 もう幾日もすれば満月だった。
 夜目がききやすくなるので、満月は好きだった。
 今のところは必要がないことだろうが、日頃の癖みたいなもので、どことなく嬉しく思う。
 家が遠くなってきたところで、霧が深くなってきた。
 唐突に夜空が見えなくなる。
 風が凪いでいて、白い霧が晴れる様子もない。
「……妙だな」
 霧の出方がいささか不自然に思える。
 まるで煙のようだ。
 辺りを見回していると、ふと何者かの気配を感じた。



  ―『煙羅』―



 刀に手を添え、いつでも抜けるように構える。
 わざわざ狭間の檻まで、闇討ちだろうか。
 私のことを知る者かもしれない。
 とはいえ、気配は所詮、気配でしかない。幽霊みたいなものだ。
 もしかしたら私の気のせいかもしれない。
 しかし私には、これまで幾度となく追われた経験があるので、気のせいではないと確信があった。
 だから、下手に動くことができない。
 まるで緊張した糸が張りつめているようだった。
 風の音も、虫の声さえも聞こえない。綿毛のひとつも飛ばぬだろう凪と静寂。
 自分の唾を飲みこむ音が、やけに明瞭に聞こえた。
 しばらくそうして視界も開けぬなか、動きを待つ。
 ついに背後で土を蹴る音がした。
 先に痺れを切らしたのは向こうのようだ。
 刀を振りぬき、翻す白刃で一撃を防ぐ。
 更に連続で攻撃されるが、それらも辛うじて受け流す。
 そして深い霧のなか、一瞬だけ見えたのは紫色の髪だった。
 その色には覚えがある。
 相手に距離をとられ、自分と相手がどこに立っているのか分からなくなる。
 この白い霧か煙かは、きっと万術だろう。
 だとしたら、相手にとって有利に働いているはずだ。
「分が悪いか」
 ただでさえ先の見えにくい闇夜に、恐らくは万術の霧。
 辛うじて刀の守りが間に合うばかりで、まるでこちらから反撃はできない。
 全方位からの無作為な攻撃に、ついに背に刀傷を受けてしまった。
 返す刀で斬り込むが、空を切るばかりで何の手応えも得られない。
 背の傷が熱を持ち始める。
 長引かせるわけにはいかない。
 しかし、それでも辛抱強く相手の出方を窺うしかなかった。
 不意に風が吹き、霧が僅かに晴れていく。
 闇夜に靄とはいえ、これならば見えないこともない。
 敵を探すと、視界の隅でゆらりと動くものが見えた。
 向かってくる人影に刀を返し、刃を流す。
「っ」
 息を飲む声と共に、影はいったん距離を置く。
 私はそちらに刀を突きつけて、目を離さずに人影を睨みつける。
 霧は、やはりよく見ると煙だったらしい。
 その煙が晴れると、紫色の長髪が目に入った。
 短い直刀を逆手に構え、きっと睨む視線は刃より鋭いように感じた。
 それは見間違えようもない、祭凰館の紫子の姿だった。
「なんでおまえが私を……」
「問答無用」
 初めて聞く紫子の声は、少女のような響きを持ちながらも低いものだった。
 あからさまに怒りを含んだ声音に、知らず背筋がぞっとする。
 片手に直刀を、もう片手の指に三つの苦無を構えた紫子。
 その近辺に、また霧のような煙が現れ、その姿を隠した。
 この煙もまた紫子の仕業とみて間違いないらしい。
「待て!」
 呼びかけるも声はない。
 先まで紫子の居たところへ峰打ちを仕掛けるも、そこに紫子の姿はなかった。
 姿勢を崩しながら持ち直し、気配を探す。
 するとこちらへ駆ける音。
 刀を構え衝撃に備えるが、何の手応えもない。
 戸惑いの刹那、頭上で空を切る音。
 慌て刀を天に翳すと、小柄な体躯の重みを乗せた一撃に、手が痺れ、刀は地につく。
 私が構え直すより早く、紫子は苦無を三つ、更に三つと連続して投擲。
 それは肩に背にと、息吐く間もなく私を襲う。
「っ!」
 背に受けた傷に苦無が刺さると、あまりの痛みに声を漏らした。
 そこを狙ってか、紫子が正面から姿を現し、刀を振り下ろす。
 辛うじて受け止め鍔迫り合いになると、紫子の怒った顔がよく見えた。
 なぜ私を襲うのか気になるが、そんな問答をする余裕はない。
 私は刀を緩く斜にすると、力で押し込もうとしていた紫子の刃が、私の刀に沿って流れる。
 紫子の姿勢が崩れたところで刀を下から叩き上げると、紫子の手は刀を握ったまま上へ流す。
 そこへ私は峰打ちの大振りを繰り出す。
 紫子の胴に決まった強烈な打撃。
「くっ……!?」
 短い悲鳴と共に紫子はうずくまった。
 紫子に刀の切っ先を向ける。
「観念しな。……てか、私はなにもするつもりはないんだけどな。私に何か恨みでもあるのか?」
 紫子は私を睨み上げて立ち上がり、刀を構える。
「お、おい、まだやんのかよ?」
「……おまえは」
 ぼそりと、紫子は覚束ない足取りのまま言葉を紡ぐ。
「おまえは、なぜ祇明さんの真似をするっ!」
 声は怒号のように響く。
「待てよ、私は祇明を知らねえ。真似なんかできるか」
「だったらなぜ、楽しそうにお館様の部屋から景色を見下ろしていた!」
「は?」
「餡を口につけたまま、なぜ気づかなかった!」
「何いってんだよ!?」
 紫子の握る手に力が込められていく。
「おまえは、祇明さんと同じ動きをなぞっている。それで胡氷さんは祇明さんを思い出して、辛い思いをする!」
「だから私を斬るってか? よく分かんねえよ!」
「胡氷さんはやっと、祇明さんを忘れることができそうだった。なのに思い出して、また元気がなくなっていく! それはおまえのせいだ!」
「知るか! 言ってるだろ、私は祇明を知らねえって!」
 私の言葉が届いていないのか、紫子は感情に任せて肩を揺らす。
 わなわなと震える顔で、刀で、私と対する。
「胡氷さんが立ち直るのに、おまえは邪魔なんだ」
 紫子が斬り込んでくる。
 私も刀を構え直して、間合いを見切ろうと目を凝らす。
 そして、私と紫子の刀が交わる刹那。
「そこまでだ」
「熱くなりすぎだぜ、紫子ちゃん」
 蛇火が私の刀を受け止め、銀次郎も同じく紫子の刀を弾いた。
 突然に躍り出てこられて面食らう。
「蛇火か?」
「ああ」
 蛇火はなんてことはなさそうに、私が引くのを見て自分も刀を納めた。
「銀次郎っ……」
「ほれ、落ち着いて落ち着いて。深呼吸な」
 一方で紫子に恨めしそうに見上げられる銀次郎もまた、いつも通りの態度を保っていた。
 蛇火は私の背に刺さった苦無に手を伸ばし、無造作に引き抜く。
「痛ぁっ! てめえやりやがったな!」
「なんだ。刺さったままがよかったか」
「そうじゃねえけど! あーもうめんどくせえな! ありがとよこんちくしょう!」
「気にするな」
 痛みで涙が出そうになりながら、体に刺さった他の苦無も抜いていく。
 紫子はまだ獣のような眼光を鈍く輝かせているが、銀次郎の説得あってか、肩の力を抜いてくれていた。
「とりあえず入れ」
 蛇火は仕切ると、先頭に立って家へ向かっていく。
 じんわり痛む傷を庇いながら、私もその後をゆっくりと追いかけた。



 蛇火は私の傷に薬を塗ってくれた。
 かなり染みるが、なんとか声は堪える。
 どういう場面であれ、蛇火に隙を見せたくはなかった。
「着物の傷は、椿に直してもらうといい」
「椿に?」
「楓でもいいが、あまり勧めはしない。涼しい代わり虫に食われる」
「ふうん。双子でも出来ること出来ないこと、違うんだな」
「そりゃあそうさ、蜘蛛の嬢ちゃん」
 銀次郎が気さくに割って入る。
「あの二人は特にだな。昼と夜とで見張りを分担しているから、日々の話し相手も変わってくるだろ? そうすりゃさすがの双子でも、ちょっとずつ違いも出てくるさ」
「ふうん。そんなもんか」
「それでも、ただ血が繋がってるだけじゃ届かないくらいには似た者姉妹だけどな」
「椿が夜の見張りだったっけ」
「話が終わったら部屋に行くといい。銀次郎の案内があれば分かるだろう」
「任せとけって。……と、まあ、ひとまずその話は置いといて、本題に入ろうぜ。なっ、紫子ちゃん」
 囲炉裏を取り囲んで座るなか、私の真正面に座っている紫子は、不満げにこちらを睨んでいた。
 気にせず銀次郎は紫子の頭に手を乗せると、ぷいとそっぽを向いてしまう。
 そして横目でまた睨まれた。
「なぜ知朱を襲った」
 黙り込んだままの紫子に、蛇火が聞く。
 紫子は鋭い視線をそのまま蛇火に向けると、次に歯を喰いしばる。
 話さないということらしい。
 その様を見て、蛇火と紫子の間にも確執のようなものがあるのかもしれないと思った。
「私が祇明に似てるからって、そう言ってたよな」
 私がそう言うと、紫子はようやく口を開いた。
「……おまえが祇明さんに似てるから、胡氷さんがいらないことを思い出してしまう」
「私にはよく分かんねえよ。祇明ってのは、胡氷と仲がよかったんだろ? 祇明を思い出すことが、なんでいらないことなんだよ」
 そう私が聞き返すと、銀次郎が気負いなく笑った。
「順を追って話す必要があるかもな」
 銀次郎の言葉に蛇火が小さくうなずく。
 それから銀次郎が話し出した。
「祇明さんが死んでしまって、胡氷さんは悩みはじめた。祇明さんより良いお館様になれないってな。と、ここまでは蜘蛛の嬢ちゃんにも言ったよな?」
「ああ、聞いた」
「それとは別に、祇明さんを思い出すのが辛い理由はもうひとつあってね」
 銀次郎は蛇火に続きを促した。
 紫子は膝に乗せた拳を強く握り締めて聞いている。
「胡氷は祇明が殺される瞬間を間近で見ている。さすがに堪えただろう。思い出して嫌になるのも無理はない」
 胡氷はその瞬間に立ち会いながらも、止めることができなかった。
 それは、確かに責任を感じるだろう。
 思い出したくない記憶になるのも無理はない。
 だから紫子は、もうそのことは胡氷には忘れてほしいと思っているのだろう。
 だから祇明に似ている私を殺そうとした。
「よく言う」
 紫子は、りんと鳴る鈴のような声で、しかし重く言う。
「祇明さんを殺したのは、蛇火のくせに」
 思わず蛇火のほうを向く。
 蛇火は瞑目したまま動かない。
 人を殺したから狭間の檻に入れられた、と蛇火は言っていた。
「紫子ちゃん、それは――」
「ああ。俺が殺した」
 銀次郎がなにか弁明しようとするのを遮り、蛇火は堂々と認めた。
 ならば何も言うことはないのか、銀次郎は押し黙る。
「胡氷はその瞬間を見ていた。悪いことをしたな」
 言葉からも、表情からも、本気で謝っている様子には見えなかった。
 その態度に紫子は立ち上がる。
 鋭い眼光から一筋の涙が頬を伝った。
「なにが『悪いことをした』だ……! おまえが余計なことをしなければ、祭凰館は今も変わらず……!」
「そういう未来もあったかもしれない。だが、悔いてどうなるものでもない」
「ぬけぬけと!」
 袂から苦無を取り出す紫子を、すぐに銀次郎が制する。
 紫子はぐっと歯噛みすると、手元の苦無はからんと音を立て床に落ちた。
「……蛇火。私は、おまえを許さない。胡氷さんはおまえを救おうとしているけれど、私は絶対に許さないから」
「好きにするといい」
「おまえも、二度と祭凰館に来るな」
 最後に私を見下ろすと、飛び出すようにして紫子は家を出て行った。
 すこしの静寂の後、銀次郎は苦笑して私に言う。
「気にしないでくれよ? かっとしやすいだけで良い子なんだ」
「……ああ、でもさ。言いたいことはなんとなく分かったから、気にしてねえよ」
 紫子は、祇明の死を乗り越えようとしているだけなのだろう。
 祇明が殺された日を振り返る胡氷と共に。
 だから私が邪魔に思えて、消そうとした。
 忌まわしい記憶を呼び覚まさせる要因になる、祇明に似ているという私を。
「俺には、ただ八つ当たりをしているようにしか見えなかったけどな」
「八つ当たり?」
「蜘蛛の嬢ちゃんを『祇明さんに似ている』ってだけで殺そうとすんのは、そりゃお門違いって話だよ」
「そりゃ、そうかもしれないけどよ……。きっと、やりきれないものがあるんだろうな」
 開けられたままの戸の向こうをじっと見つめる。
 たとえば、筋の通らない八つ当たりだとしても。
 たとえば、無関係な相手へ身勝手な感情をぶつけただけだとしても。
 そうやって怒るほど大切なものが紫子にはあった。そういうことなのだろう。
「蜘蛛の嬢ちゃんは、理屈で知るんじゃなくて、感情で聞く類の人間なんだな。言葉より気持ちで理解する」
「……かもな」
「そういうところも祇明さんそっくりさ」
 祇明にそっくり。
 その言葉の重みが、私にとって大きく変わっていた。
 良くか悪くか、祭凰館に多くの影響を与えている。
 それは大きな責任があることのように思えた。
「楽しそうに景色を見下ろしたり、餡を口につけたまま気づかなかったりってのは」
「あー、祇明さんらしいね」
 銀次郎は懐かしむように笑った。
 祇明ではなくても普通のことだと思うのだが、そうでもないのだろうか。
 それから蛇火に、自分の疑問を聞いてみる。
「蛇火が祇明を殺したってのは?」
「言葉の通りだ」
「それで、ここに閉じ込められた」
「そんなところだ」
「なぜ殺したんだ? 祇明のことが嫌いだったのか?」
「そんなことはない」
「じゃあなんで」
「覚えていない」
「……そうかよ。とにかく、祇明を殺した蛇火が元凶なんだな?」
「そうなるかもな」
 蛇火にしては珍しく、自嘲めいた響きがあると思った。
 似合わないと思う。
 それから気になっていたことを銀次郎に聞こうと顔を向ける。
「銀次郎は蛇火のこと、どう思ってんだ?」
「ん? そうだなぁ。べつに恨んじゃいない。これでも長い付き合いだ、事情があったんだろうと思ってる」
「さて、どうだかな」
 蛇火はため息を吐き、銀次郎の言葉を受け流した。
「まぁ、そんなところさ。いまさら付き合い方を変えるなんて器用な真似もできなくてね」
 銀次郎はへらりと言って、私のほうに顔を向けた。
「無茶だとは思うが、なにも蜘蛛の嬢ちゃんが気負うことはないからな?」
「そりゃあ無茶だな。ああまで怒りをぶつけられると。……私はもう祭凰館には行かないほうがいいんだよな?」
「いやいや、そんなことはないぜ。いくらでも来てくれ」
「は? でも」
「紫子ちゃんについては俺に任せとけって。蜘蛛の嬢ちゃんは、誰がどうとかなく、自分の意志ってやつを大事にすべきだ」
「知ったような口をきくな、銀次郎は」
「そうかい? そのほうが世のなか楽しくなるぜ?」
 やたらと軽薄な笑みを浮かべ、ただの興味だというように聞いてくる。
「ところで蜘蛛の嬢ちゃんはどうよ? 蛇火のことどう思った?」
「べつになんとも思わなかった。人殺しだってのは聞いてたし、その相手が祇明だろうが誰だろうが、私は知らん」
「ははっ。なるほど、違いないな」
「あとは、のらりくらりとする様はまさに蛇だ。いつもぼうっとしてるくせに、刀を抜けば私より強い。飯はうまい。むかつく野郎なのに斬れないから、もっとむかつく」
「はははははっ!」
 ひいひいと肩で笑う銀次郎。
 蛇火はいつもの仏頂面で聞き流していた。
 銀次郎は私の意志を大事にしろと言った。
 ここにいるのは悪くない。
 正直なところ、ここを離れたくないという思いが私のなかに生まれていた。
 けれど、紫子の怒りを思い出すと複雑だ。
 祇明を殺した蛇火の真意。
 それを知れば、私の意志は変わるのだろうか。
 紫子は納得できるのだろうか。
 丸く収まればいい。
 日差しが部屋のなかに入り込んできて眩しく思った。



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