楽しい一日になるはずだった。
 それを打ち砕いたのは、刀に滴る、炎のような赤色だった。



  ―『紫子の追憶』―



 全ての提灯の灯りは消され、ほの白く淡い光が障子をするりと抜ける。
 それは暖かくもあり、涼しいようでもあった。
 半端な陽気を感じてあくびをしていると、奥から胡氷さんが現れた。
 慌てて開きっぱなしの口を両手で塞ぎ、そちらへお辞儀をする。
「ほはようございます」
 あくびが終わりきる前に喋ったせいで、なにやら間抜けな発音になった。
 胡氷さんはくすりと微笑む。
「ええ、おはよう」
 笑われてしまった、と顔が熱くなる。
 こほんと咳払いをして気を取り直す。
「祇明を知らない?」
「……お舘様ですか?」
「ええ。祇明にしては珍しく早起きしたみたいで、部屋にいなかったのよ」
 祇明さんは朝に弱い。
 何度か起こしたことはあるが、いつもなにかと言い訳をつけてはまどろみ始める。
 そんな祇明さんが早起きとは、今日は雪でも降るのかもしれない。
「探してみます」
「お願いね」
「任されまし……ふぁーあ」
 言い切る前に、またあくびが出てしまった。
 実のところ、私も祇明さんのことを言えぬほど朝に弱いのだ。
 布団から出たといって油断はできないもので、壁があれば寄りかかって眠ってしまう。
 そのときは銀次郎と蛇火に見つかって、すごく恥ずかしかったのをよく覚えていた。
「任されました」
 言い直すともう一度お辞儀をして、胡氷さんの横を通りすぎた。



 私は静かなほうが好きだ。
 騒がしいのも嫌いじゃないし、そも祭凰館は騒がしい空気になりやすい。
 最近はうるさいのを楽しいと思えるようになってきたが、それでも静かな空気に浸りたいときもある。
 そう思っているときには祇明さんが現れて、私を誘って散歩に連れていってくれる。
 まるで私の気持ちを読んでくれたように、静かに会話をしてくれる。
 たぶん祇明さんのそういうところが、私は好きなのだ。
 相手の気持ちに目線を合わせる。
 とても難しいことだと思うが、あっさりとやってみせる祇明さんはやっぱりすごい人だと思う。



 祇明さんは、お館様の部屋から外を見下ろしていた。
 祭凰館と仲のいい魚の町や、遙か遠くの山まで見渡せる。
 今日は雲で陰り、あまり良い天気ではないようだ。
「ん、あれ、紫子ちゃん」
 私は祇明さんの隣に立つと、一緒に外を見る。
「おはようございます、お舘様」
「おはよ。なんていうか、ぱっとしない朝だね」
「ですね。……胡氷さんが探してましたよ?」
「げ」
 祇明さんはぎくりとして、綺麗な手で額をおさえて苦笑する。
「今日も忙しくなりそうだねー」
「なにかあるんですか?」
「んー……」
 歯切れ悪く、額に当てた手でそのまま髪を掻く。
 よく見れば、まだ寝癖が残っていた。
「偉いひとっていうのは、毎日めんどくさいことするひとのことだからね」
「祭凰館のお舘様ですもんね……。私なら荷が重いかもです」
 花宮の家系が治める萌芽領のなかでも、祭凰館はよく名の売れたお館だ。
 それは萌芽領に点在するお館、ひいては花宮家に頼りにされることに繋がる。
 忙しくなるのも無理はない。
「もう三日目になるよ。祭凰館に閉じこもり、外に出られなくなってから」
「仕方ないです。もうひと頑張りです」
「紫子ちゃんが無責任なこと言ってる」
 はぁ、と大きなため息をつくと、かくんと頭が落ちた。
 なかなかの疲労が窺える。
 私は励ますように、祇明さんの髪を手で梳いだ。
 美しく長い赤髪は、すらすらと手が流れて、小川のようにひっかかりがない。
「紫子ちゃん?」
「寝癖、残ってます」
 気休めにしかならないが、自慢の髪が痛まないよう慎重に直そうとする。
 祇明さんはちょっと顔を上げて、横目で私を見下ろした。
「ほんと? わぁ、それを見逃すくらい集中力なくなっちゃってるか」
 祇明さんは困ったように笑うと、自分の前髪を引っ張って遊び始めた。
「落ち着くなぁ。しばらくそうしててくれる?」
「はい。心ゆくまで」
 鳥のさえずりが聞こえる。
 風の音、雲の流れ、ときたま顔を出す日輪。
 しっとりした空気は不快ではなく、むしろ心地良い。
 じきに暖かくなってくるだろう。
「……ふぁーあ」
 私のあくびが出ると同時、祇明さんもあくびをした。
 くすっ、と少女のように無邪気に笑う祇明さんに、私もつられて口が緩む。
「あー、おかしいっ!」
 そうしてひとしきり笑うと、思い出したように祇明さんは言う。
「笑顔、上手になってきたよね」
「う。そうでしょうか?」
「そうだよ、間違いない」
「なら、銀次郎のおかげです」
「あはは、手の目の兄さんは笑うの上手だからね」
「尊敬です」
 うんうんと祇明さんは頷くと、のんびりとした手つきで私の頭を撫で始めた。
 優しくてくすぐったいけれど心が安らぐ。
「さてと、最高の笑顔も見れたことだし、今日も一日がんばりますか!」
「恐縮です。えと、胡氷さんが……」
「だいじょうぶ、分かってるよ」
 祇明さんはお舘様の部屋を出ると、廊下を歩み始めた。
 私はその隣につく。
「お供します」
 祇明さんも笑顔が上手だ。
 心底そう思える表情を浮かべてくれた。
「その可愛い笑顔なら、手の目の兄さんだって振り向いてくれるよ」
 祇明さんの呟きに、私の顔が熱くなるのを感じた。
「……意地悪です」
 私も呟き返すと、祇明さんはただ優しい瞳でこちらを見てくれた。
 心地良いけど、赤くなっているであろう今の顔は、あんまり見てほしくなかった。
 そうして広間に出ると、祭凰館に住むひとが行ったり来たりしている。
 祇明さんは大きく息を吸い込んだ。
「みんなおはよう! 今日も一日、がんばっていきましょーう!」
 言い放つと、みんなの思い思いの返事で溢れかえった。



 今日の私のお仕事は少ない。
 なので、誰かのお仕事を手伝おうと思っている。
 私一人が暇だからといって、他の皆も暇というわけではない。
 そんな誰かの負担が少しでも減るなら、それはとてもいいことだ。
 私もたいがい仕事の早いほうではないが、足をひっぱるほどではないと自負している。
 自分の力量くらい分かっているつもりだ。



 ……とはいえ、私はあまり会話が得意じゃない。
 誰に声をかけることも出来ぬまま、時間が過ぎていく。
 よくない。
 厄介な性分だ。
 なんとか解消しなければ。
 そこまで思って、以前も同じことを考えていたと思い出す。
 それから銀次郎と笑顔の練習を始めたのだった。
「……銀次郎」
 銀次郎は笑顔が上手だ。
 笑顔だけじゃない、銀次郎は表情豊かだ。
 仏頂面ばかりの私と違って、そこがこよなく羨ましい。
「……銀次郎は、なにをしているんだろう」
 情けなくなりながら、銀次郎を探してみることにした。



 それからしばらくして、聡流さんの部屋から銀次郎が出てくるのが見えた。
 駆け寄ると、銀次郎はやはり笑ってくれた。
「どうした? 何かあったかい?」
「いえ。……聡流さんですか?」
 聡流さんは、祭凰館でなにか難しいことを調べている学者だ。
 なにを調べているのか聞いても、なにかよくわからないことを調べていることしか分からない答えが返ってくる。
 遠回しな言い方が癖になっているのか、偏屈という印象だ。
 ……私も人のことは言えないのかもしれないけれど。
 そんな聡流さんと銀次郎は仲が良いらしい。
 聞けば、魚の町に住む学者さんとも仲が良いらしく、交友関係の広さに驚かされるばかりだ。
「ただの世間話さ。あれは好きこれは嫌いとかなんとか。いい加減にしてくれって追い出されたけどな」
「そうですか」
 私を見下ろす銀次郎。
 目は見えていないはずなのに見られている気がして、なんだか安心した。
「これから、予定はありますか?」
「えーっと、魚の町で菓子を買ってくるよう頼まれてたっけな。そろそろ行かないと」
「お供します」
 銀次郎の隣に立つ。
「そりゃ心強い」
 銀次郎が一歩、前に出る。
 その背中を見つめていると、胸の鼓動が大きくなってきて、顔が火照ってくる。
 少しぼうっとしてしまい、はっとすると慌てて銀次郎の後を追った。



 買い物を終えて祭凰館に帰る。
 それから更に時間は流れ、夕刻。
 私と蛇火は祇明さんの護衛についた。
 魚の町から人が来たので、部屋の前を二人で固める。
 なんでも次の魚凰宴祭の打ち合わせをするらしい。
 部屋のなかには胡氷さんもいる。
 胡氷さんはしっかりしているので、祇明さんが聞き逃してもだいじょうぶだろう。
「…………」
「…………」
 蛇火も私と同様、あまり口数は多くない。
 静かなのが好きな私には、むしろありがたい時もある。
 しかし時折、気まずさを感じてしまう。
 今もまさにそれだった。
「魚凰宴祭。……もうそんな時期ですか」
 限りなく世間話に近いことを言ってしまったと後悔する。
 私に似て無口な男だ、気の利いた返事は期待できない。
「そうだな」
 予想通り、一言で会話は途切れてしまった。
 次の言葉を探そうとするが、どうにもなにも浮かばない。
 会話を諦めかけていると、珍しく蛇火の口が開いた。
「魚の町の遣い。見かけない顔だった」
 予想外のことに驚き、慌てて言葉を紡ごうと口を開く。
「でしたね」
 ……私も私で、やっぱり気が利かない。
 銀次郎ならもっと良い返しをしたのだろう。
 不甲斐ない。
 膝を抱えて座り、その間に顔を埋めた。
 そうして時間が過ぎるのをただ待ち続けていた。
 しばらくして部屋を出てきた祇明さんは、落ち込んでいるように見えたらしい私にすごく驚いていた。
「ど、どうしたの!? 蛇火に何か言われた? もう、なにやってんの! 紫子ちゃんは繊細なんだよ!」
「……何も言っていないが」
 というより、何も言えなかったというか。
「だいじょうぶ? そうだ、お菓子たべる? 手の目の兄さんが買ってきてくれたやつ、いっぱいあるから!」
「……お呼ばれします」
 祇明さんの反応に、内心ちょっと笑いながら頷いた。



 そうした日々は、とても楽しかった。
 私は銀次郎に憧れるばかりで、近寄ることもできなかったけれど。
 それでも、私は私なりに楽しんでいたと思う。
 そうして魚凰宴祭の日がやってきた。



 魚凰宴祭は魚の町で行われるので、祭凰館のひとは一足先にみんなそちらへ下りていった。
 私はしばらく自分の部屋で時間を潰し、後から一人静かに魚の町へ向かおうとしていた。
 そこまで時間のかかる距離でもない。
 すっかり暗くなったのを確認して、ようやく表門をくぐる。
 日差しの熱が残る、生ぬるい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 さてそろそろ行こうかと、山道を下ろうとする。
 そのとき、背後にそびえる祭凰館から物音がした。
「?」
 振り返るが、提灯の灯りがない夜の祭凰館は、目を凝らそうともよく見えない。
 それでも辛うじて人影が見えた。
「…………銀次郎?」
 銀次郎はうろうろした後、どこへやら闇に消えていった。
 そういえば、すこし祭凰館の見張りをするとか言っていた気がする。
 双子の門番は先に行かせるとかなんとか。
 なら、私も焦ることはない。
 銀次郎が出てきたら、いっしょに行こう。
 そう思って、祭凰館から少し離れた場所で、魚の町を見下ろして時間を潰す。
 まるで蛍が密集しているかのように光る魚の町は、見ていて飽きないものがあった。
 自然に笑顔になる。
 銀次郎を誘って、いっしょに祭りを回ろう。
 祇明さんといっしょに美味しいものを食べよう。
 疲れてきたら、胡氷さんや蛇火といっしょに遠くから祭りを眺めよう。
 考えをめぐらせると、とても楽しい気持ちになった。
 ――そんな折、つんざくように響いたのは、甲高い悲鳴だった。
「っ!?」
 祭凰館のなかから聞こえた、悲痛というには生ぬるい、そんな金切り声。
 なにが起こったのか、祭凰館の者として確認しなければ。
 しかし耳に残る悲鳴に怯み、少しだけ躊躇ってしまう。
 ……怖がっている場合じゃない。
 恐怖を振り払うように頭を振ると、意を決して祭凰館のなかへ駆け込んだ。



 どこからか、泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
 その声は女性のものだと分かるが、誰の声か判別がつかない。
 鼓動がもっと早くと体を鳴らす。
 焦燥感は募り、やがて不安に化ける。
 全力で走っているのにもどかしくて仕方がない。
 泣き声のするほうへ、するほうへ――
 駆けていってたどり着いたのは、お舘様の部屋だった。
「っ、はぁ……はぁ……!」
 途端に疲れがやってきて、膝に手を当てて俯く。
 息が上がって頭を上げられない。
 それでも、辛うじて視線だけで部屋を見渡す。
 自分の荒い呼吸しか聞こえない。
 虫が鳴いていたはずなのに、まるで耳に入ってこない。
「はぁ……はぁ……」
 定まらない視線で、ぐらぐら揺れる視界で、働かない頭で、この状況を理解しようとする。
 月光に輝く、床にこぼれた深紅の水溜。
 その赤に汚れた刀身の切っ先だけが、月明かりに晒されている。
 暗がりに、その刀を持つ人影。
 両膝を突いて肩を震わせている、白い髪の女性。
 そして、本能からだろうか、最後まで視線を向けられなかったのは、仰向けに倒れた赤髪の女性。
 斜めに開いた大きな傷口から、赤い液体が源泉のように枯渇を知らず溢れている。
「――祇明さん」
 荒い呼吸のなか、やっと倒れている人物の名を呼ぶ。
 呼びかけは届かず、動く気配を見せない。
 代わりに刀を持った男が、月光のなかへ一歩、足を踏み入れた。
 その顔はよく知っている。
 一つに結んだ長髪が、ぬるい風に揺れている。
 理解したくないと思った。
 これはなにかの間違いなのだと。
 しかし男は、蛇火はこちらを見て、相変わらずの無愛想で、浅い希望を打ち砕く。
「祇明は俺が殺した」
 暗がりに歪む口の動きと、か細く聞こえた冷たい言葉。
 あれほど荒かった息が刹那に止まる。
 代わりに出たのは足だった。
 手は勝手に刀を抜いて、蛇火に斬りかかる。
 声にならない雄叫びが頭のなかに響く。
 私の声だと気づいたとき、刀は蛇火の首筋を捉えていた。
 もはや止まらないと思った剣戟は、見えない斬撃に弾かれる。
 何度も見せてもらった剣技、ヤンマ斬りだ。
 それを受けて、やっと私の隣に銀次郎がいたのだということに気づく。
 次第に聴力が戻る。
 泣いているのは胡氷さんで、私を止めたのは銀次郎で、倒れているのは祇明さん。
 そして、その祇明さんを殺したのは蛇火なのだと、やっと頭のなかで理解する。
「蛇火っ……。蛇火ぃっ! 貴様ぁっ!」
 私の体を、銀次郎が抑えつけている。
「やめろ! あいつに手ぇ出すな!」
 銀次郎の制止は、耳には届いても、体には届かない。
 自分のものとは思えないほどの力で、銀次郎を振り解こうとしている。
 そんな私たちを、蛇火はただ冷めた目で見つめていた。



 蛇火は狭間の檻に閉じ込められることになった。
 祇明さんを殺した罪は、どれほどの時間の償いだろう。
 正直なところ、死ぬまで入れられていようと軽すぎるように思う。
 どんな事情があって、祇明さんを殺したのかは知らない。
 だがどんな事情であれ、蛇火を許す気にはならないだろう。
 ……目の前で、祇明さんの体が燃えていく。
 焔弔草は祇明さんの行く先を、天へのぼる火の塵が導いている。
 それは美しくて、涙が出るほどに綺麗で、同じほどに哀しい光。
 銀次郎に繋いでもらった手に力がこもる。
 蛇火への怒りと、祇明さんとの別れの悲しみ。
 そういうものが綯交ぜになってこめられた力。
 魚凰宴祭の日の悪夢は、とうとう覚めることなく祭凰館を蝕んでいった。
 祇明さんがいなくなった祭凰館の活気は失せ、人は次々とお館を出ていってしまう。
 胡氷さんは新たなお舘様として踏んばっているが、祇明さんの影にいつもうなされていた。
 見ているだけでも辛すぎる。
 そんなお舘様の姿を見て、私は心を決めた。
 祇明さんを忘れる努力をしようと。
 前に進むためにはそれしかないんだ。
 涙をぐっと堪えていると、いつしか私は、いつかの私のように笑わなくなっていた。



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