温い夜風を浴びながら、暇潰しに夜空を流れて月を遮る雲を目で追って遊ぶ。
 月の光が雲をふんわりと通ってきて、優しく闇を濃くさせる。
 それを見ていると、どこか夜も悪くないと思えた。
 なんとなく空に手を伸ばしてみる折、不意に刀に手が触れた。
 抜いてみると、月に煌く刀は妖しく、また美しく輝きを増す。
 ここ数日は黙々と刀を振ったり、蛇火に試合を申し込んだりして過ごしていた。
 魚凰宴祭当日、私はきっと墓守と戦うことになる。
 だからすこしでも身体を動かしていようと思ったのだ。
 成果があったかどうかは分からないが、ともかく今日という日がやってきた。
 今日は蛇火の話を聞きに銀次郎たちが訪れる日。
「……」
 すーっ、と大きく息を吸って吐くと、刀を斜に構えて眼前にあった樹に向けて一閃。
 しかし刃は樹の半ばほどで勢いを失い、それ以上先まで切り裂くことはできなかった。
「……ちっ。蛇火のやつならきっと、樹くらい楽勝で切り倒せるんだろうなぁ」
 いまいち強くなった手応えもないし本格的に行き詰った気分だ。
 抜き取った刀を見下ろしてから鞘に納めると、ちょうど木々の向こうから銀次郎たちが歩いてくる姿が見えた。



  ―『日の出の予兆』―



 かくして、狭間の檻のなかの小屋には、未だかつてない人数が押しかける形となった。
 内訳は、私に蛇火、銀次郎、聡流、そして紫子。
 皆、魚凰宴祭の準備で忙しかったはずだが、疲れがまったく顔には出ていなかった。
 私と蛇火を睨みながら銀次郎の隣にむすっと座る紫子は、相変わらず不機嫌そうだったが。
「……なに」
 紫子に視線を向けていた私に気づき、紫子は敵意を隠さず低い声で威圧してきた。
 懐かない犬に吼えられるようでどこか寂しい気分だった。
 こんなことを言ったら、また機嫌が斜めになることだろうから、悟られぬよう平静を保つ。
「別になんでもねえよ。……紫子はどうしてここに?」
 私や蛇火の顔など見たくもない。
 そんなことを紫子は言っていた気がするが。
 銀次郎がなにかを答えようとする前に紫子が先手を取った。
「おまえらと悪巧みしてるみたいだったから」
 紫子はぶっきらぼうに言うと、ぷいとそっぽを向いてしまう。
 悪巧みって。
 本当にそう見えたのなら、ちょっと勘繰りすぎだと思う。
 警戒癖は悪いことじゃないが、警戒されているのが私ではやっぱりやりにくいな。
「ははっ、まあかっかすんなって。今夜の主役は蛇火なんだぜ?」
「……むぅ。気に入らない……」
 紫子の頭に手を乗せてなだめる銀次郎。
 扱いに慣れているようだ。
 紫子のほうも先程までの一触即発の気配が影を潜め、ただ銀次郎の手を受け入れている。
「さて」
 いままで黙っていた聡流が、袖に手を隠したままに声を発した。
 本題に入るようだ。
「蛇火殿、まずは聞かせて頂きたい。祇明殿が最後に話をしたがっている者とは誰なのか」
 皆の視線は蛇火に向けられる。
 当の蛇火は相変わらずどこかにゆとりのある様子で場を一瞥すると、ようやく口を開いた。
「胡氷だ」
 やっぱり! と銀次郎は声を上げると、ぱちんと指を軽快に鳴らす。
 銀次郎の予想通りか。
「祇明殿は暫くの間、胡氷殿を避けていたと聞いているが、それと関係しているか」
「ああ。一から話したほうがいいか」
 銀次郎の口から「答え合わせだな」と楽しそうな声が漏れるのが辛うじて聞き取れた。
 本当に楽しんでいるのだろう、得な性分だと思う。
「二年前、魚の町からの使者を名乗り、魚凰宴祭について話をしに来た男がいる。紫子は覚えているか」
 話を振られた紫子がすこし考えてから銀次郎を見上げ、しぶしぶ答える。
「……見覚えのない顔だ、って蛇火が言っていたひと?」
「そうだ。単刀直入に言うならば、あの男は魚の町からの遣いではなかった」
「…………?」
 紫子の怪訝そうな視線が蛇火を突き刺している。
 その瞳を物怖じせずに見返してから話を続けた。
「その男は月見領の者だ。本人が言っていた」
「月見領ってえと、この萌芽領より北のとこか。目的は……ま、物騒なことには違いねえよな」
 銀次郎の言葉に頷く蛇火。
「奴は祭凰館を内側から破壊する計画を企てていた」
「ふむ。無茶をする」
「無茶をされた結果、祭凰館の戦力は当時に比べて脆弱になった。奴の作戦は成功だと言える」
「……確かに」
「もう一度突かれたならば、祭凰館に次などなかっただろうな」
「……。その月見領の人物は、いったいどのような策で祭凰館を崩した?」
「万術だ。それも厄介な。聡流の言葉を借りるなら、感情操作の万術になるか」
 聡流はすこし考える。
 そして、あらかじめ多少は想像していたのだろう、すぐに予想を口にした。
「……なるほど、確かに厄介だな。希少な類の万術なだけあって強力だ」
「奴の万術は、心のなかの怒りや恨みのような、攻撃的な感情を増幅させるものだった。対象は一人に限られるうえ、面倒な制約もあったようだが」
「ならば、その万術を祇明殿に……。…………いや、攻撃的な感情の増幅ならば、それは違うか……」
 なにかに勘付いたらしい聡流は目を見開いた。
 蛇火はしずかに頷く。
「相手は祇明ではなく、胡氷にこの万術を用いた。――祇明にのみ理不尽な怒りの矛先が向かうように」
「っ!」
 この蛇火の台詞に一番驚いていたのは紫子だった。
 星のように綺麗な目できっと蛇火を睨む。
「嘘だったら許さない」
「そうか。安心しろ、嘘など吐かん」
「…………」
「なるほど、祇明殿が胡氷殿を避けていた理由は分かった。訳の分からない奇妙な怒りから逃れるためか」
 唇を噛みしめる紫子とは対照的に、実に落ち着いた様子で頷く聡流。
「それもある。祇明は胡氷が何者かに感情を操作されていることに気づいていた。ならば胡氷を理不尽に怒らせることは敵方の得になる。故に胡氷を無闇に怒らせることを避けるためというのが第一だ」
 つまり胡氷は、ある瞬間から常に祇明を恨んで生活をする破目になったということか。
「俺は祇明に相談され、共に胡氷を救う方法を探した。しかし何ひとつ分からぬまま時は過ぎ、それでも胡氷は得体の知れぬ憤りに蝕まれ続ける。胡氷本人も操作できない己の感情に苦悩し、祇明を傷つけてしまう自分に傷ついていく」
「聞いてりゃ、なかなかえぐいやり方だよな。特にうちのお偉いさんにゃ効果覿面だ。祇明さんも胡氷さんもちょいと優しすぎる」
「育ての親が良かったのだろう」
「ははっ、そりゃ羨ましいね」
「そんな話はいい。続けて」
 ばっさりと切り捨てる紫子。
 銀次郎は苦笑すると蛇火に続きを促した。
「祇明はすべてを丸く収めることを真っ先に考えた。すべてを救う策として祇明は、自らの死後、来世の己にすべてを託すことを決断した」
「……諦めたのか? その万術をどうにかするのを」
「いや。俺は諦めなかった。しかし、自らの死をも策に組み込んだ祇明の覚悟は汲まねばならん」
「義理堅いこって」
 生真面目な男だ。
「魚凰宴祭の後までは胡氷の心がもたない。これは祇明の覚悟の後に協力を仰いだ戌束の推測だ。なればこそそれまでに決着を付けねばならん。良くも悪くも」
「良くも悪くも?」
「胡氷の心を操っている者の狙いは祇明の命。祭凰館を打ち崩すのが狙いならば、お舘様を討ち取るだけでも十分すぎる打撃になる」
「つまり祇明だけが狙いなんだから、祇明が死ねば、用済みの胡氷は万術から解放されるってことか」
 蛇火は私の問いに頷いた。
「俺と祇明は魚凰宴祭の当日、別行動を取っていた。俺は万術の使い手を探し、祇明は胡氷を引き付ける。俺が万術の使い手を殺せたならば吉、胡氷は元に戻る。だが俺が仕損じれば祇明の命は、胡氷の手によって失われる」
「……引いたのは凶だったと」
「そうだ。万術の使い手を討ち取ったには討ち取ったものの、時すでに遅し。急ぎ祇明の元へ向かったときには遅かった。事はすべて終わっていた」
「待て」
 黙って話を聞いていた紫子が声を上げる。
 驚きに満ちた顔からは、心なしか血の気が引いて見える。
「おまえが祇明さんを殺したんじゃ……」
「…………手にかけたわけではない。だが間に合わなかった。俺が殺したようなものだ」
 『俺が殺した』という言葉の真意はそういうことか。
 より一層生真面目な男だったらしい。
「……胡氷さん、なの? 祇明さんを、斬ったのは」
 紫子の神妙な問いに、蛇火はゆっくりと頷いた。
 銀次郎の袖を握る紫子の手が震える。
 銀次郎は黙って紫子の頭を撫でてやった。
「このまま自分が死ねば、胡氷の心に深い闇が残る。今のようにな。そこでいざという時には来世の己を使い胡氷と話をする。祇明はそこで胡氷の心の傷を全て癒す腹積もりだろう」
「……祇明さんの来世だという人はどこに。……近くにいるの?」
「ああ。ここにいる」
 と、蛇火がこちらを見るのに合わせて、紫子も信じられないという表情で私を見た。
「そんなの……。おまえの想像じゃないのか」
「そうだったら言葉もない。が、そんなものは試して判断すれば良い。違うか」
「…………世迷言。なにを企んでいるか分かったものじゃなし……」
 ぎりと歯を噛みしめ、紫子は沈黙した。
 しんと静まり返ったのを確認して蛇火は続きを語る。
「俺はいざというときの指示を祇明から受けていた。その内容はこうだ。『胡氷の罪を被ってほしい』ということと、『祇明の来世が現れたとき、銀次郎たちと引き合わせて真実を暴かせる』ということ」
「……つまり蛇火殿は、いち早く祇明殿と胡氷殿の元へ駆けつけ、銀次郎たちが来たときに胡氷殿が使った刀を手にした。これで罪を被るという目標は達せられる」
「ああ。胡氷には『祇明の意志だ、成り行きをただ見ていろ』と伝えた。だから俺が罪を被ったときにも反論はしなかった」
「祇明の意志か。なら胡氷さんも逆らえないな」
「もっとも、自分の手で無二の親友を殺してしまった絶望の渦中にいた胡氷には、物を言うことなど最初から出来なかっただろう」
「それも違いない」
 聡流は両袖で口元を隠しながら苦笑する。
 乾いた笑い声の後、次に話に入ってきたのは銀次郎だ。
「じゃあ区切りがついたところで、二つ目の指示について聞かせてもらおうぜ。俺は蜘蛛の嬢ちゃんが来たとき、今日話したことの全てを蛇火から聞いている。俺は最初っから謎の全てを知った状態で、謎解きをする蜘蛛の嬢ちゃんを見守ってきたわけだが……。あのとき、なぜ俺にだけ全てを話したんだ?」
「最初っから知ってた? そうなのか?」
 思わず声を上げたのは私だ。
 銀次郎は笑って頷くと、蛇火の言葉を待つ。
「誘導する者が必要だった」
「誘導?」
「知朱は人里の大地からやってきた者だ。そんな者にあれやこれやと全てを語ったところで受け入れられないだろうし、理解も出来なくて当然だ。だがそれでも知朱に真相の全てを知ってもらわなければならなかった」
「ふんふん。で? 誘導って?」
「知朱は国中の刺客から逃げ回るという辛く長い旅路の末にここまで来た。ここや祭凰館にも長く留まる決断はしないだろう。だが、あらかじめ銀次郎に知朱と祇明の関係を明らかにすると、銀次郎は祭凰館から知朱を逃がすわけにはいかなくなる」
「あー」
 なるほどね、と銀次郎の顔が天を仰いだ。
 たしかに初めは、そこそこ強引に祭凰館に住むことを誘われてたっけな。
 私を逃がすわけにはいかないっていう意図があったのか。
 だからってここが人里の大地ではなく影明郷だって話を唐突にされても、私は信じることをしなかっただろう。
 そこでただ狭間の檻に居座らせることを選び、少しずつ成り行きを受け入れさせ、私の身をもって学ばせたと。
 よく出来た話だ。
「留まらせたならば、あとは流れるように事は進む。近くに眠る祇明の思念に影響される知朱を祭凰館の者が見ると、既視感から祇明の話をしてくれるだろう。なにより祇明の死の謎解きに自ら進んだならば、あとは戌束に会わせ自分が祇明の来世だと気づかせれば、もはや一件からは逃げられない」
「……犬に会わせるきっかけを作ったのは、僕か。なるほど、知朱殿が乗り気になったからこそ、僕は犬に話を聞いてきてもらうことを知朱殿に頼んだ。すべて計算か?」
「祇明の策通りだ。ここまで上手くいくとは、正直なところ俺も思っていなかったが」
「あの方には全てお見通しというわけか。時たま本気を出すとすごいひとだったからな、祇明殿は」
 聡流はそのままに蛇火に質問をする。
「祇明殿と蛇火殿が犬に会ったというのは、祇明殿の作戦に協力者が必要だったからか?」
「そうだ。ただ、聡流に話すわけにはいかなかった。上手くいくかも分からん奇策で、祭凰館の者にありもしない希望を抱かせるわけにはいかんからな」
「やれやれ。やはり祇明殿は優しいな。気を遣いすぎて水臭さすら感じる」
「……戌束に初めて会ったのは魚凰宴祭の五日前。それからの三、四日間、祇明の万術の研究や、知朱がちょうど祭凰館に現れてくれるかなど、いろいろなことを調べてもらった。俺は胡氷の心に万術を掛けた犯人探しに明け暮れ、大して戌束と話などしなかったが」
「なるほど。理解した」
 聡流は短く感謝して口を閉じた。
 そこで私は、そういえばと疑問が湧き上がる。
「なあ、蛇火はどうして私が祇明の来世だと気づいたんだ?」
 思い返せば、蛇火は最初から私を殺すつもりはないようだった。
 しかしここは狭間の檻。外から知らない者が来ることなど有り得ないはずだ。
 普通に考えて、私はあまりにも怪しすぎる。
 だが蛇火は短く笑って答えた。
「祇明とは長い付き合いだ。だから分かる」
「はあ……? 違ったらどうするつもりだったんだよ」
「がっかりして、それで終わりだ」
「…………」
 本当にこいつのことは分からない。
 裏では色々と考えて動いていたくせして、私のことを見破ったのは直感だと蛇火は言う。
 その長い付き合いとやらから生まれる信頼だけで、銀次郎に今回のことを全て明かし、賭けたっていうのか。
 私が押し黙っていると、銀次郎が楽しそうに「くくっ」と堪え切れない笑いを零す。
 聡流も静かに口元が緩んでいた。
 紫子だけは相変わらずの仏頂面だったが。
 なんにせよ、私が笑われているように思えて気に入らない。
「真相ははっきりした。さて、蛇火殿。これから僕らはどうすればいい」
 聡流の言葉に、改めて場の空気が引き締まると、視線が蛇火に集まった。
「まず最初に話しておかなければならないことがある。祇明の目標は、すべてを丸く収めること。そのために胡氷には真相を伏せてもらう」
「? なんでだよ?」
 胡氷は心を操られて祇明を殺したから、祇明の死は胡氷の責任じゃない。
 そう伝えてしまえば丸く収まると思うのだが。
「――祇明殿は、月見領との争いすらも避けるつもりなのか?」
「そうだ。胡氷は責任感が強く、熱くなりやすい。真相を知れば月見領へ復讐しに行きかねない。たとえ一人でも」
「穏便に事が運べばよし、か。祇明殿は最後まで甘いお方だ」
「そうだな。だが、俺たちはそんな祇明だから付いてきた。……紫子。おまえもかっとなりやすい。自制しろ」
「…………。話がデタラメじゃなかったなら聞き入れる」
 気づけば紫子は苦い表情で怒ったように床を睨んでいた。
 怒りの矛先は、祇明の甘い考えか、胡氷を利用した月見領ってところの奴なのか……。
 実際のところは、色んなものが頭のなかでごちゃ混ぜになり、生まれた怒りを抑えられないってところか。
 矛先をどこに向ければいいのか分からないのだろう。
「まず知朱は、魚凰宴祭当日の夕暮れ時、風切山の墓場に向かえ。奥地にある祇明の墓の近くに、糸が巻かれた大きな石がある。そこに祇明は居る」
「祇明の万術だっていう糸のことだな。分かった」
「……。あそこには墓守という者がいる」
「ああ、知ってる。つい最近会ってきた。たぶん戦うことになるんだろうな」
 墓守として、夜の墓場への侵入を阻止する。
 それがあいつの意地だ。
 間違いなく私の前に立ちふさがるだろう。
「あれは一人で墓を守り続けているだけあって、かなりの使い手だ。勝てるか」
「心配いらねーよ、なんとかする。余計なお節介はいらないぜ」
「そうか」
 自分でもどこから自信が湧いてくるのかよく分からないが、はっきりと言ってやる。
 気持ちだけは十分だ。
 私の意気に蛇火は口角を上げて頷いた。
「蜘蛛の嬢ちゃん、死ぬなよー?」
「死ぬかよ。こちとら生きるか死ぬかの道をずっと歩いてきた夜の蜘蛛だ。なめんな」
「ははっ、大した自信だ。なら安心だな。いよっ! さすがは夜の蜘蛛!」
 夜の蜘蛛を誇るわけではないが、悪くはない気がした。
 私のなかで燃える『生きてやる』って意欲を存分に活かして、生き延びてやる。
「次に、知朱以外の動ける者は、胡氷を風切山の山頂まで連れていってほしい。そして知朱と祇明が来るまで待っていろ」
「山頂ってえと、あの見晴らし台んとこの広場か。なんでまたそんなところで?」
「祇明の望みだ」
「そっかい、了解。祇明様のおっしゃる通りに。あ、紫子ちゃんも手伝ってくれよ?」
 銀次郎は紫子の背中をぽんと叩くと、紫子は蚊の羽音のように消え入りそうな声で答える。
「……銀次郎が言うなら」
 紫子は渋々ではあるが了承してくれたようだ。
 次いで、聡流は静かに言う。
「なら僕は、名残惜しいが祭凰館で吉報を待つことにしよう」
「ふうん。それでいいのか?」
「祇明殿に会えないのは名残惜しいが、僕と話をするのに時間を割くほど長く知朱殿のなかには留まれまい。そのせいで肝心なことを言いそびれる結果になっては敵わないよ」
 聡流は、僕の分も話をしてきてくれと銀次郎に伝えた。
 銀次郎は笑って頷くと軽口を言う。
「一人になったところでめそめそ泣くなよ? 僕も祇明殿に会いたかったーってさ」
 ふざけた調子の銀次郎に深いため息で返す聡流。
「僕が泣くと、本気で思っているのか?」
「いんや、泣かねえわな。猿は我慢が上手い」
 呆れられたようだが、しかしくっくと愉快そうに笑う銀次郎。
 蛇火は皆の会話を見届けた後に落ち着いた声で言う。
「まとまったか。ならばこれからは三日後に備えろ。今後の祭凰館の在り方が決まる重要な作戦だ」
「違いねえな。世話のかかるお舘様の傷心をなんとかできないと、祭凰館に未来なんてない。お上のやる気がそっくりそのままお館の士気に繋がるんだからよ」
 なら、この二年間で祭凰館は腑抜けてしまっているんだろうなと思った。
 以前の祭凰館は、それはもう賑やかで楽しいお館だったと聞く。
 今では落ち着いたもので、人もすっかり居なくなってしまっているのだ。
 その頃の祭凰館を知らないので、私からはなにも言うことはないのだが。



 皆が帰り、小屋の座敷には私と蛇火だけが残された。
 互いに顔も見ず、自分の刀をじっと見つめたり、天井の木目をぼんやり眺めたりする。
 蛇火は珍しく感傷に浸っているらしく、いつもと比べてより静かで、石のように動かない。
 ただ静かな虫の声と、時折か細く雅な風の音が聞こえるのみの静寂を、しばし瞑目して楽しむ。
 思えば、私も妙な因果に巻き込まれたものだ。
 記憶も朧な子どもの頃に、生意気なお上を殺してお尋ね者になった。
 明くる日も明くる日も、追われ追われ追いかけられての気の休まらない日々。
 それが今ではこんなにも人に気を許してしまっている。
 飢えは魚を採ったり木の実を見つけたり、たまに盗みを働いたり。
 それが今ではゆっくりと腰をおろし、くつろぎながら食事ができる。
 同じ場所に踏みとどまらず、いつもどこかへ放浪するばかり。
 それが今では宿木がすぐそこにある。
 祭凰館。
 全てが上手くいったなら、私の宿木はあそこにしよう。
 見晴らしもいいし、町も近い。
 なにより笑い合える人がたくさん居る。
 ふと目を開くと、蛇火がこちらを見ていた。
 どこか優しげで奇妙に思う。
「なんだよ?」
 静寂を破り、思わず声が出た。
 蛇火は小さく笑うと、黙って首を横に振る。
「……なんだよ? 気持ち悪いな」
「大したことじゃない」
「なんだよっての」
「……。来てくれてよかった。俺はおまえに救われた」
「大げさだろ、それ」
 予想だにしなかった言葉に、思わず笑って答える。
「いや。良かった。それだけだ」
 蛇火はそう言うと、先程の私と同じように目を閉じた。
「俺はおまえに救われた。今度は胡氷の番だ。救ってやってくれ」
「ったく。振り回されるのは今回限りだぞ。片が付いたら好きにやるからな」
「ああ、それでいい。…………寝るか。しっかり休め」
「わかってるっての。……なあ、おまえは全部終わったら、祭凰館に戻ってくるのか?」
「そのつもりだが。知朱はどうする」
「祭凰館の仲間に入れてほしいと思ってるよ。いろいろ考えたけどさ。夜の蜘蛛が生意気にも日の光を欲してるんだ。私の日の出は、あそこにある気がする」
 夜の深閑のなか、二人の会話が途切れる。
 蛇火が座敷を去る際で、ふと私のほうを振り返った。
「おまえは初めから夜の蜘蛛などという不吉なものではない。少なくとも俺にとっておまえは希望だった。必要としている者は初めからここに居る」
「…………。夜の空気に当てられすぎだ! もういいからさっさと寝ろよ! 鳥肌が立つだろうが!」
「そうか。悪かった」
 蛇火は笑って、ようやく私の前から姿を消した。
 静かになった座敷の行灯の灯を消して、ごろんと横になる。
 まったく。
 そんなこと言われたら嬉しいだろうが。
「げ……」
 ちょっとだけ涙が零れていることに気がついた。
 こんな顔は誰にも見せられない。
「私も私で、夜の空気に当てられすぎだな……」
 障子から差し込む青白い光に、ふと手を伸ばす。
 温もりもなく、ただ私の肌を透き通る月明かりがやけに眩しく滲んで見える。
「……くそ、なんだってんだよ」
 泣くつもりなんて微塵もなかったのに。
 安寧の地に来てだいぶ経った今になって、ようやく安定した地盤に安心したのか。
 ……いや、違う。
 蛇火の言葉のせいだ。
 私を必要としてくれていた言葉がどうしようもなく嬉しいんだ。
「らしくねえ、らしくねえっての……。だあーっ! もう! 寝る!」
 涙ばっかり零れるだらしない顔を叩いて気合を入れ、布団を出し始めた。
 もう泣かない。泣かないうちに寝てしまおう。
 なにも考えずに寝てしまえばいいんだ。
 何の夢の見ずに、ただ朝が来るのを待てばいい。
 今は三日後に備えて待つだけだ。



 翌朝。
 目が覚めるや否や飛び起きて、蛇火の姿を探す。
 蛇火は小屋の前で静かに刀を構えていた。
 朝の眩しい日輪を背負い、じっと目を閉じなにかに集中している。
 声をかけても良いものか悩んだが、やがて私は名前を呼んだ。
「蛇火」
「起きたか」
「おう」
 私も用意しておいた刀を抜いて、蛇火に構える。
「これからの時間、稽古をつけてくれよ」
「構わん。そのつもりだった」
「そうかよ」
 墓守は腕が立つと昨晩聞いたので、すこしでも腕を上げておきたかった。
 やっぱり万一のことがあっては一大事だ。
 私にとっても、祇明にとっても。
「よろしく、蛇火」
「素直になったものだな」
「うるせえ! 私はな、おまえに勝つって目標もまだ捨てちゃいねえんだ! いつか見てろよ! 覚悟しとけ!」
「そうか。覚悟しておこう」
 いつも通りの余裕ぶった腹立たしい態度に少しばかり安心した。
 昨晩の寝る間際みたいなことを延々と聞かされてはたまらないと思っていたところだ。
「いくぞ!」
「ああ」
 刀を握りしめ、刃を鳴らす。
 すべては来たる時のために。



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