この日の朝は、いつも以上に清かな静寂に包まれていた。
 朝靄がひんやりと肌に纏わりついて、呼吸をするたびに胸のなかがすっきり澄み渡る。
 今日は魚凰宴祭が執り行われる日。
 そして、祭凰館にとって大きな意味のある日だ。
 祇明の計画が成就するか、頓挫するかを賭けた命運分かつ日になる。
 しかし不思議と緊張はない。
 むしろどこか余裕があった。
 私にとってこのことは、まだ他人事なのだろうか。
「…………ま、いいか」
 緊張するより気楽にいったほうが上手く行くはずだ。
 肩の力を抜いていこう。
 もちろん、だらけすぎも良くないのだが。
「起きたか」
 いつの間にやら、私の背後に蛇火が立っている。
 いつも通りの無愛想な挨拶からは、いつもとは違う調子が含まれているように感じた。
「祇明の策の仕上げ。いや、なんつうか、後片付けか?」
 思えば二年前、すでにこの事に決着だけはついているんだよな。
 胡氷の心を弄んだ張本人は土の下、事の真相は蛇火が下手をしたと捏造しておしまい。
 限りなく歪な形をしてはいるが、事件は終結しているのだ。
 ならこれから私が行うのは後片付け。風呂敷を畳むような他愛もない作業にすら感じる。
「そっか。だから気楽なんだ」
 ひとり呟き、思わず苦笑する。
 美味しいところは全部、二年前に食い尽くされているのだ。
「……。苦労をかける。知朱の責任ではないことに巻き込んでしまった」
「なにを今更。少なくともいまの私は好きで首を突っ込んでいるんだぜ? ここまできたら、最後までてめえの妹の我侭に付き合ってやるよ」
「そうか。恩に着る。……」
 蛇火の表情はどこか曇っていた。
 らしくない顔に訝しんでいると、蛇火は重く口を開いた。
「祇明は、お転婆で手がつけられん妹だ。時には過ちだって犯す普通の娘だ。……だというのに、祇明には色々と背負わせてしまった」
「……悔いてんのか? その、なんちゃら領の下手人をとっとと始末できなかったことを」
「それもあるが、そうではない。……祇明は今も背負いっぱなしで辛いのだろうなと、そう思う」
 蛇火も人並みに兄なのだろう。
 蛇火本人も辛いが、それ以上に辛いであろう祇明を不憫に思っているらしい。
 ついに今日という日がやってきて、心になにか切ないものがつっかえているようだ。
「祇明を任せる。救ってやってほしい」
 結った漆の髪が揺れたかと思うと、蛇火は私に頭を下げた。
 私はあまりにも意外な様に慌てふためいているだけで言葉も出なかった。
 とにかく蛇火のらしくない姿を長く見ていられず、ただ蛇火の頭を無理やり上げさせる。
 そのときの蛇火は、力なく笑っているように見えた。
 私は大きくため息を吐く。
「任せとけ。……なんて言えるほど私は頼りになるやつじゃねえけど。でも分かったよ。ぜんぶ救ってくる。胡氷も祭凰館も、祇明も。それでいいんだろ? それが祇明の望みなんだよな?」
「ああ」
「なら、偉そうなことは何一つ言えないけどさ。まぁ待っとけ。なんとかしてみせるよ」
「……。そうか。任せよう」
 私は蛇火に背を向けて、祭凰館へ出るための鳥居へ歩みを進める。
「じゃあな、行ってくる」
 蛇火は返事をしなかった。



  ―『日輪昇りし処へ』―



 まだ朝早い刻限だが、ひとまずは祭凰館を訪れることにした。
 門のところではいつものように双子の片割れである楓が見張りをしている。
 大きな欠伸を漏らしているところを見ると、今さっき夜の当番である椿と交代したばかりなのだろう。
「あっ、知朱さん! いやぁ、なんともぬるかましい朝ですねっ!」
「……心地よい朝だ、とかじゃ駄目なのか?」
 ぬるかましいなんて言葉は知らないぞ。
 よく分からないが不快感がありそうな響きだ。
 ちなみに今の外の具合は、照る太陽は暖かく、風は夜を引きずるかのようにひんやりとしていて心地よい。
 言うまでもなく悪い気はしない天気だった。
「ところで、聡流様からお聞きしましたっ! 今日、皆さんがやることをきっかりと!」
「あぁ、そっか。この前は手伝ってくれてありがとな。……一応聞くが、お前らはどうするんだ?」
「私たちは……。……残って祭凰館を守らなくちゃだめです! 聡流様のお近くで、皆様の無事をお祈りすることにしますねっ。……ほんとは祇明様にお会いしたいですけれど」
「いいんだな?」
「もー! 決意が揺らいじゃってぐらぐらしちゃうんよ! しまいには目を回してこけちゃいますから! それはもうすってんころりんといった具合にですねー!」
「分かった分かった。もう言わねえよ」
 なにやら怒り出す楓に慌てて謝る私。
 まったく、相変わらず元気な娘だ。
 見ていて和む。
 門番や見張り番ってより、看板娘といったほうがしっくりくるような気がしてならない。
「祭凰館は私たちにお任せー! どーんと笹舟に乗ったつもりでゆらゆらしていてくださいっ!」
「沈まないか不安だな、それ……」
「えええっ、そんな! 私、笹舟を作ることにかけて右に出る者はいないほどですよ!?」
 本当にこの姉妹には飽きがこない。
「ははっ。じゃあま、祭凰館は任せたぜ」
「はいっ! しかとお仕事を全うするんよ! 見張り番の名にかけて!」
 ひとりめらめらと燃える楓にもう一言挨拶をしてから、祭凰館のなかへ入っていった。



 ぶらぶらと廊下を彷徨い、行き着いた先は聡流の部屋だった。
 障子越しの淡い光が包み込む部屋のなかに、聡流はいつかのように座していた。
 筆を執りなにかをしたためている。
 その小さな背中と、やけに真剣な眼差しを、部屋の外からぼうと眺めていた。
 しばらくして聡流は筆を置くと、入り口に佇んでいる私に体を向ける。
「お待たせした。ご無沙汰だね、知朱殿。体調は万全かな」
「聞かれるまでもねえよ。これが具合悪いやつの面に見えるか?」
「ふっ。かえっていつも以上に活力に満ち満ちているようだ。僕如きが心配をしてどうなるものでもないな」
「冷たいこと言うじゃねえかよ。心配するだけならタダだろ?」
「なに、君には僕でなくとも、大いに心配してくれる者がいる。僕は気楽でいるさ」
「あ?」
 聡流は袖で隠した小さい口で意味深に笑った。
 おかしくて仕方ないようにくすくすという笑い声が続くので、すこし奇妙に思う。
「なんだよ。今日はずいぶんと楽しそうじゃないか?」
「ん、ああ。悪いね。先ほどまで嫌な顔を思い出していたものだから、どうもその反動が出てしまったらしい」
「嫌な顔?」
 聡流は先程まで筆を走らせていた和紙に目を配らせてから瞑目する。
「犬のやつに文を書いていた」
 一転して細く低い声を絞り出した聡流に驚く。
 聡流と戌束が互いに毛嫌いし合っているのは知っていたが、それだけでこれほど苛立った声音が出せるものなのか。
「一応、犬が知朱殿や僕らに情報を提供してくれたことには感謝せねばならないからね。しかし心にもない謝辞ばかりを書いていると虫酸が走る」
「相手の戌束がああいう奴だから、手紙を見た瞬間に馬鹿笑いしそうだよな」
「そう、奴はそういう男だ。その果てにひとを小馬鹿にした態度を取るのだ。まったく、礼が欲しければ向こうから来れば良いものを」
 ため息交じりに疲れたような声で言う聡流に苦笑する。
 それはそれで何かおかしい気がするが。
 本当に戌束がここを訪れて礼をねだれば、それこそ諍い事の火種でしかないだろう。
「おかげで何枚もの紙を無駄にした。なにが楽しくて奴のために頭を抱えねばならん」
 感謝する理由があっても、やっぱり戌束のことは気に入らないらしい。
 しかし聡流も義理は通さなければならないと思っているようで、不本意そうに唸りながら筆を持つ。
「来てもらって茶も出せず申し訳ないが、僕はもうしばらく頭を抱えることにする」
「そうかい。頑張れよ」
 背を向けた聡流を見届けてから、私も部屋から出るため襖のほうを振り返る。
「祇明殿が祭凰館のお舘様になってくれたことには、心から感謝している。祭凰館は確かに祇明殿に救われたのだ」
「あ?」
「しかし祭凰館にはまだ祇明殿の助力が必要らしい。……いや、違うな。そういうことを言いたいのではなくて……」
 聡流はしばらく悩んだ後、再び口を開く。
「頼む。祇明殿と胡氷殿に今一度の機会を」
「分かってるよ」
 きっと聡流は、祇明の力になれないことを歯がゆく思っているのだろう。
「僕の期待と願いを、持っていってくれるか」
「構わねえよ。荷物になるもんでもないしな」
 聡流の部屋を出て、ぴしゃりと襖を閉めた。



 あまり立ち入ったことのない長い廊下を歩くと、渡りの向こうに稽古場のような場所があった。
 そちらから物音が聞こえたので、誰かいるのだろうかとそちらへ歩いて行く。
 すると、だだっ広い板敷の間の中央に銀次郎の姿を見つけた。
 一人静かに刀を両手で握って構え、いくつかの棒立ちしている案山子のような置物に体を向けている。
 声を掛けようかと思ったところで袖を引っ張られる感覚がした。
 そちらを見ると、静かに私を射抜く紫子の双眸が光っていた。
 紫子はすっと人差し指を自分の口元に持ってくるので、私も喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。
 こういう場では静かにしているのが礼儀らしいことを察する。
 紫子と並んで銀次郎をぼんやりと見ていると、そういえば紫子に怒った様子がないことに気がついた。
 確か祭凰館に私が来るのは面白くないと思っていたはずなのだが。
 私のことを許す気になったのだろうか。
 紫子の心中がどうであれ、未だに気まずい空気が私たちの間には残っているのは間違いないのだけれど。
 銀次郎が呼吸を整え、刀を握る手の高さを上げ、柄が首筋の辺りになるまで持ち上げる。
 凪の湖面のようにひとつの揺らぎもない、しかし故にちょっとした揺らぎで波紋が広がるように動き出すであろう隙のなさが銀次郎にはあった。
 つくづく対面したくない相手だ。
 そう思った次の一瞬、瞬きをする間に繰り出された銀次郎の突き。
 緊張が解けたように解き放たれたのは、刀身より出でた生ける斬撃、ヤンマ斬り。
 ひとつを数えるよりも早く、無作為に並べられた案山子の胴が次から次へと切り裂かれていく。
 最後の一体を斬ると同時、目に見えない斬撃はほんの夕立が如く過ぎ去っていった。
 銀次郎は満足そうに刀を収めると、顔をこちらのほうへ向ける。
「っと……。蜘蛛の嬢ちゃんかい?」
「おう。相変わらずすげえな、ヤンマ斬り」
「ははっ、お褒めに預かり光栄の至り。ただ、動き回る人間が相手では目で見なきゃなかなか当てることは出来ないんだよなぁ」
 ……つまり、掌の目を使えば相手を問わずヤンマ斬りを必中させる自信があるということか。
 さすがに誇張だとは思うのだが、空恐ろしい話だった。
「紫子ちゃんも帰ってきたみたいだな? お疲れさん。どうだった?」
「はい。祇明さんの好きなお饅頭を一箱だけ買えた」
「よーし、よくやった。偉いぞ」
「……子供扱い」
 むぅと膨れる紫子。
 不服そうだが、しかし不貞腐れる様子もなく銀次郎の顔をじぃっと見上げている。
「さぁて、まだ昼にはなってないよな? 飯でも食うか? 魚の町……て、紫子ちゃんが行ったばっかなんだよなぁ」
「大丈夫。銀次郎の食べたいところで食べる」
「でもなぁ、疲れただろ? んんー。蛇火んとこに集りにいってもいいんだが」
「それは勘弁してくれ。かっこつけて出てきたから、すぐに戻るのはちょっと気まずい。行くなら二人で行けよ」
「ははっ、そいつはいいや。笑い話を肴にすればさぞ食が進むだろうぜ。て、もしかして今、怖い顔してるか?」
「してねえよ、してねえけど後で見てろよ」
 おぉ怖い、とおどける銀次郎は、いつもと変わらず気楽だ。
 がちがちに緊張していたらそれこそ事だが、かといってこれほどいつも通りだとは思わなかった。
 そこまで考えて、そういえば楓や聡流もいつもと何も変わっていなかったなと思い出す。
 これも祇明の影響なのだろうか。
「私はいいよ。蛇火のやつに握り飯を持たされているんだ」
「……あいつも世話焼きだなぁ。それとも心配性か?」
 いっそ呆れた様子の銀次郎の言葉に苦笑する。
「両方じゃねえか? ま、私は食えれば何でもいいんだけどよ」
「ははっ、違いない。あいつもあいつなりに厄介な性分だなぁ」
 それから銀次郎は「台所で適当に見繕って食べるかー」などと言いつつ稽古場を後にした。
 紫子もそれに付いていこうとして、ふと私の顔を一瞥して踏み止まる。
 じっと見つめられるが、やがて決まりが悪そうに目を逸らして言った。
「ごめん」
 私の顔をじっと見つめたことに対する謝罪か、それとも以前に私を殺そうとしたことへの謝罪か。
 ともかく一言だけそう言って、そそくさと逃げるように銀次郎を追いかけていった。
「……ごめん、か」
 なんだか心のつっかえがひとつ外れた気がした。



 それからは祭凰館の前で、蛇火に習った刀の手入れをしてみたり、振り回したり、休んだりして時間を潰す。
 気がつけば日も傾き、空がほんのり赤みを帯びてくる刻限だった。
 そろそろだろうかと思い始めたところで、銀次郎と紫子が私の前に現れる。
「蜘蛛の嬢ちゃん。覚悟はできてるか?」
「何を覚悟する必要があるんだよ。死ぬ覚悟か? だったら死ぬつもりはないぜ」
「はははっ、そりゃそうだな。案外一番気が楽なのは蜘蛛の嬢ちゃんかもな。まぁともかく、墓守を相手にするときはよくよく用心するこった」
 笑いながら釘を刺す銀次郎。
「山の夜は早いから、もう行って。暗い夜道は心もとない」
 紫子はぶっきらぼうに私を促しつつ、なにかの箱を手渡してきた。
 ひとまず受け取ると紫子は力強く頷くが、まったくわけが分からない。
「ああ、それな。祇明さんに渡してくれ。きっと喜ぶぜ」
「そういや、昼に饅頭がどうとか言ってたな。供えてくればいいのか」
「あーまぁ、そうなるのか。じゃあそれでひとつよろしく頼むぜ」
「途中で食べたりしないで」
「そんなに怖い顔すんなよ……」
 謝られたとはいえ、まだ私と紫子の間には遠い距離があるようだ。
 まあ、仕方のないことだろう。
 全てが片付けば、いくらでも近付く機会はあるはずだ。
「そういや忘れてたけど、胡氷のほうはどうなってるんだ? 体調、あれから良くなったのか?」
 今日はお舘様の部屋にも行っていないが、心の隅で気になっていた。
 胡氷の体調が崩れた原因が私にあるのだから、さすがに心配する。
「おう、抜かりないぞ。ただまぁ、また具合が悪くなっても可哀想だし、何一つ用件を伝えないまま風切山の頂上へ呼び出すつもりだ」
「……そっか。治ればいいな。胡氷の心の傷」
 親友を殺してしまったときに付いた心の傷。
 祇明はなんとかすることが出来るのだろうか。
 ……しかし、どうやら胡氷の傷を癒すことができるのは祇明のみらしい。
 託すしかない、か。
 そのためにまずは私が動かなければいけない。
「……よし、気合入った」
「だな、良い顔になったぜ。そら行ってこい! 死ぬなよ、蜘蛛の嬢ちゃん!」
「お前らも上手くやれよ」
「任せとけって。日輪の昇る山の頂上で会おうぜ!」
「やるしかなし」
 銀次郎はやはり笑い、紫子はこくんと頷いて応えてくれた。
 青葉闇のなかへ一歩踏み入れると、途端に夜になったかのように足元が暗くなった。
 それでも日輪昇りし処へ向かうのだと思えば、歩みが止まることはなかった。



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