山の夜が早く訪れることを私は知っていたし、先ほど紫子も言っていた。
 木々の影や膨らんだ大地が壁のように光の通り道を塞ぎ、星なき夜を誘いこむのだ。
 祭凰館の建てられた風切山といえど、日暮れの魔物は例外なく住み着いているらしい。
 闇は静かで安らかながらも恐ろしい。
 辛うじて辿るべき道は見えるので、その線から逸れて谷に転げ落ちないよう注意しながら慎重に歩む。
 あまり急ぎすぎて怪我でもしたら大事だ。
 過去の経験から飽きるほどに学んできたことだ。
 そんなことになっては、ただ歩くことさえままならない。
 だから細心の注意を払い、歩幅を小さくしてゆっくり歩いているのだが……。
 それにしたっておかしい。
 風切山の墓所は、祭凰館の裏の道を通っていけばすぐに辿り着くはず。
 だが、私が祭凰館を出てどれほど経った?
 私の記憶通りならば、すでに祭凰館と墓所の間を二往復できるほどには歩いたはずだ。
 なのにまだ墓所のかけらも見えてこないなど、ありえるはずがない。
 これほど遠いはずがない。
 途方の暮れる思いで膝に手をついて足の疲れと向き合うと同時、夕闇に一羽の鳥が細く鳴いた。
 とてもうら寂しく、不吉な声が響く。
 思わず身震いして顔を上げるが、黒く遮られた青葉に鳥の姿はなかった。



  ―『お人好し』―



 まるで夢のなかで走っているような感覚だ。
 歩けど歩けど進まない、水に浸ったまま足をかくみたいにもどかしい。
 まるで変わらない景色に苛立ちを覚えて舌打ちをした。
「本当に夢じゃねえよな……」
 そこらへんの木の枝を拾って、先端を腕に突き立ててみる。
 しっかり痛いことを確認すると、ため息交じりに道の向こうのほうに枝を投げた。
 そしてまた歩みを進めると、木の枝を踏んで奥へ。
「……やっぱ、進んではいるんだよな?」
 行けども行けども辿りつかない墓所に不安を抱く。
 ふと西の方角を眺めると、黒い木々の影の隙間から僅かに橙色が見える。
 先ほどよりも暗くなっているように感じ、自然に焦りが出てきた。
 駆け足になって薄暗い土の道を確かめながら先を急ぐ。



 その最中で、見覚えのある木の枝を見つけた。
 私が先ほど踏んづけた枝のようだった。
「……は?」
 西の方角を眺めると先ほどと同じような光の形が見えた。
 見える景色が同じということは、戻ってきてしまったのだろうか。
 まさか私は、同じところを回り続けてしまっているのか?
 しかし道は一本道だったので、道の間違えようがない。
 ましてや、道は常にまっすぐだった。
 くねくねしたこともなければ、曲がり道ひとつさえ存在しなかった。
「……ちっ。まさか墓守が道を細工したか?」
 私が墓場につけば、墓守は私を殺そうとする。
 しかしそもそも私が墓場に辿りつくことができなければ、そんな面倒なことはせずに済む。
 だとしたら、やはりこれは墓守の万術か?
 しかしそうだとしても、いったいどのような万術を使って、どのような種を仕込んだのか、私には想像もできなかった。
「はぁ」
 近くの木に寄りかかって一息つく。
 足下が見えづらい道を歩くことは難しい。
 集中力がすり削られるようで疲れてしまった。
「墓守め。この山に住んでるやつは全員お人好しってことかよ」
 私を殺さないための配慮ってことか。
 残念ながら殺しに来てくれたほうが私は楽だ。
 どうせ引き返すなんてことはできないのだから。
 私はどうしても祇明に会わなければいけないのだ。
「……それもこれも祇明や祭凰館のため、なんだよなぁ」
 私もこの山に染められたものだなとつくづく呆れ返った。
 私もお人好しならば墓守もお人好し。
 お人好し同士が顔を合わせれば殺し合いの大立ち回りを演じねばならぬとは、なかなかどうして滑稽だ。
 ……とにかく、少し休もう。
 なにか先へ進む良い考えが浮かぶかもしれない。
 そう思って、目を閉じる。
 ふと昔のことを夢想すると、真っ暗闇にひとりぽつんと立っている私の姿が見えた気がした。



 初めて人を殺したあの日から、余力が残るような日は一日たりとてありはしなかった。
 毎日を全力で生き抜き、全力を出し切ってきた。
 しかし今にして思えば、私は本当は死にたかったのではないかと思う。
 全力を出して戦い、殺し、逃げ回ったが、毎夜眠る直前には一種の虚無感があった。
 私は長らくその穴のような感情の正体を知ることができなかったが、今になって気づいた。
 全力で体を動かして、生きようとして、それで死んでしまったら「仕方ない、よく頑張った」と言い訳ができる。
 私には生きることに楽しみを見出すことができなかったし、未来になんの期待もしていなかった。
 漠然と『夜の蜘蛛』を生きていた。
 私は生きたかったのではなく、生きようとしたかったのでもない。
 ただ死を待っていたのだ。
 それにしてはずいぶんと返り血を浴びてしまったけれど。
 蛇火と出会い敗れた夜に『死にたくない』『悔しい』と思ったが、それは普通の人間ならそう思うだろうという蜘蛛の妄想だった。
 本心ではほっとしていたのだろう。
 蛇火に殺されそうになって、ようやく夜の蜘蛛の呼吸は止まるのだと、死を穏やかに受け入れようとしていた。
 私が本当に生きたいとさえ思っていれば、蛇火に負けて気を失う前に、尻尾を巻いて逃げ出していただろう。
 例えば刀を弾きとばされ失おうと、命までは取らせない。
 私にはそれが出来るはず。
 しかし蛇火から逃げなかったのが、頭と心の主張が食い違っていた良い証拠。
 私は死にたがっていた。
 まして今の私には勝てないであろう相手に殺されるのならば望むところだと。
 ……けれど、死を待ち望んでいたのはもう過去の話。
 今は違う。
 確かな楽しさを知り『生きたい』と本気で思うことができた。
 だから今度は赴くままに生きてみよう。
 心から生きてみようと思ったのだ。
「……そういや、昔のこと、あんまし思い出せねえや」
 あれだけ長かった逃亡生活の記憶が遠くで霞むようだ。
 昔のことを思い出そうとしたところで、辿り着く記憶は影明郷に来てからのことだけだ。
 もしかしたら人里の大地にいた記憶こそが夢で、こちらが現実だったのではないか。
 あるいは私は生まれ変わったのかもしれないな。
 本気でそう思えるほど、辛かった記憶は柔らかいものになっていた。
 これも楽しいと思うことによる副産物なのだろうか。
「それはそれで名残惜しいもんだな」
 皮肉を呟いて目を開くと、西日の色が徐々に青くなっていることに気がついた。
 そろそろ本物の夜が来て、魚の町は魚凰宴祭の賑やかな喧騒に包まれるだろう。
「さて、諦めずに行ってみるか」
 ぼちぼち立ち上がる。
 そのとき、寄りかかっていた木の上のほうに紙切れが引っかかっていることに気がついた。
 なんだろうと思って手を伸ばすと、それは奇妙なお札だった。
 字は難しくて読めないし、描かれた無数の紋様が意味するものはわからない。
 しかしなにか引力のようなものを感じるお札だ。
「まさか、まったく墓が見えてこないのはこいつの仕業か?」
 確信ではないが、ここは影明郷。
 なにが起きても不思議ではない、そういう場所なのだ。
 お札がなにかしらの術の力を持っていても不思議はないはず。
 だからこそ怖いというのもあるが、私は恐怖を振り払い、お札を両手で掴んで一思いに破り捨てた。
 ひらひらと風に流されて西の空へ消えていくのを見送って息を吐く。
「これで良い方向に進んでくれればいいんだがな」
 道の先を見遣ると、再び歩き出した。



 果たして、今度はあっという間に墓場が見えてきた。
 思わず歩みを早めると、西の空を遮り続けていた木陰が晴れ、夕闇が迫る空に浮かぶ星がよく見渡せる。
 遥か彼方の満月を見つけてから墓場のほうに目を戻す。
 やはり薄暗い墓所は不気味だ。
 その薄気味悪い墓石の影から灯りがひとつ、漏れて見える。
 俗に言う人魂のようなものかと思ったが、よく見ると長い木の枝に吊るされた提灯だということに気づいた。
 ゆっくりと進むそれを目で追うと、その提灯を手にした墓守がのそりと現れる。
 灯りを手に見回りをしているのだろう。
 これほど嫌な寒気のする場所でよくやるものだ。
 墓守はこちらに気づくと、僅かに目を伏せてのんびり私に近づいてくる。
「……諦めてほしかった。です。だめだった、来たら」
「だが来ちまったぜ?」
「うん」
「なあ。来る途中にあったお札、おまえが仕掛けたのか?」
「……うん。行ったり来たりの、お札。……それで、諦めてほしかった」
 墓場という場所も影響しているのだろうか、墓守はやけに不気味に私を見つめている。
 すこし寒気がした。
 しかし私からも一歩、墓守に近寄ろうと足を動かす。
「動かないで」
 墓守らしからぬ力強い声に圧されて、踏み出そうとした足が引っ込んだ。
 しかし墓守は急にしおらしく頭を下げ、地面に揺れる提灯の灯りをじっと見つめながら、囁くように言葉を紡ぐ。
「……すいません。まだ、間に合う。あと一歩、進んじゃだめです。ので、帰ってほしい。助かります、そしたら」
 墓守はここまで来てしまった私を、まだ殺したくないと思っているらしい。
 やっぱり墓守はお人好しだ。
 だからこれ以上は来るなと引き止めているのだ。
 しかしその言葉で私を引き止めることはできない。
 祇明のことももちろんだが、それ以外にも重要な理由がある。
「おまえの口ぶりは、間違いなく私に勝てると言ってるみたいだ。自信家なのは結構だが、あんまり私を見くびりすぎじゃねえのか?」
 その理由とは、私が負けず嫌いなことだ。
「本当に勝てるかどうか、試すくらい良いだろ? なあ、墓守さんよ」
 私は墓守に止められた一線へ、足を踏み出した。
 しっかりと足跡が残るのを見て、墓守は寂しそうに眉を下げる。
「……ごめん。手加減、できない。僕が決めた、僕の決まりだから。決まりは、守る物」
 墓守は地面に提灯を置くと、手をぶらんとさせたまま、私を無感情に、しかし確かに睨みつけた。
 提灯の灯りで出来上がった影は私と墓守の姿をはっきりと写し、長い影がゆらりゆらりと炎に合わせて蠢いている。
 私は刀の鯉口を切ると、影もそれに合わせて私の格好が変わった。
「何が何でも通してもらうぜ。その先に用があるんだ」
 墓守の影が不自然に濃くなるのが見えた。



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