藍色と橙色の狭間を、手のひらについた目を細めて眺める。
 祇明さんが昏れられてからの二年間は、なにもない、がらんどうな毎日だったように思う。
 活力を失った祭凰館からはほとんどの者が去り、残った俺たちも沈んでいた。
 いまのお舘様である胡氷さんは、特にひどかった。
 俺は表面上はいつも通りを演じることもできたが、胡氷さんはそうはいかない。
 自らの心に宿る暗鬼に負け、親友でもあった祇明さんを手にかけてしまった。
 すべては仕組まれた事件だと知らず、未だに胡氷さんは自分を責めつづけている。
 それは、いったいどれほどの辛さなのか、俺には想像することすらできなかった。
 それほどの空洞が穿たれた胡氷さんの心を、祇明さんは綺麗に埋めることができるだろうか。
 俺は不安だった。
 けれど、祇明さんがお舘様だったときのように、あのひとについていくしかない。
 それが俺たち、お館に住まう者にできる唯一のことなのだから。



  ―『心の暗鬼』―



 しばらくは、ぼうと空を見ていた。
 くすんだ色の空を眺めていると、遠い日の記憶が蘇るようだった。
 風切山の頂上からは、空や遠くがよく見える。
 祇明さんもよく気に入っていて、ここではしゃぐ姿をよく見かけたものだ。
「銀次郎」
 少し遅れてきた紫子ちゃんに声をかけられる。
 俺は郷愁めいた記憶のなかから現実へ意識をひき戻し、いつものように紫子ちゃんに笑いかけた。
 紫子ちゃんもまた、いつも通りだ。
 俺は紫子ちゃんの目を久しぶりに見た。
 大きな紫色の水晶に一点の曇りもない、そんな輝きを見るのが、紫子ちゃん自身の強さを写すようで懐かしかった。
 いまの紫子ちゃんからは、目からだけでなく、声からも懐かしさを感じる。
 二年より前、祇明さんが生きていたときと同じ声だ。
 川に流れる青葉のような、静かで安定した声。
 それは、紫子ちゃんから迷いがなくなったことをあらわしていた。
「蜘蛛の嬢ちゃんには、ちゃんと謝れたかい?」
「…………」
 紫子ちゃんは俺の隣までくると、一緒に遠くの景色を眺めた。
 ほとんど沈みかけた夕日が紫子ちゃんの顔を照らすと、柔らかそうな白い頬をほんの少しだけほころばせる。
「まだ、信じきれていない。けれど、謝らなくちゃ子供っぽい」
「はは、なるほど。じゃあ、まだ許してはいないんだな?」
 蜘蛛の嬢ちゃんが胡氷さんの前に現れ、胡氷さんはかつて心に宿した暗鬼を思い出して体を壊した。
 俺は、それで蜘蛛の嬢ちゃんを恨むのは、理不尽な怒りだと思う。
「…………それは」
 紫子ちゃんも、自分で理不尽だとわかっていたのだろう、ばつが悪そうに視線を落とす。
「……胡氷さんも祇明さんみたいに、二年前にいなくなったって、思ってた」
 俺は遠くを仰いだままに、紫子ちゃんの言葉に耳を貸す。
「元気がなくなって、寝込むようになって。笑ってくれるけれど、いつだって無理してた。本当の胡氷さんはもうどこにもいないんだって、諦めていた」
 けれど、と紫子ちゃんは俺の着物の袖をつかむ。
「あの頃の胡氷さんが、実は二年前から眠ったままで、ほんとは残っているとしたら、私は胡氷さんを起こしてあげたい。…………だから。…………私が許していないのを気にして、そのせいでしくじられるのは、嫌だっただけ」
 だんだんと消え入るように小さくなっていく言葉に、思わず声を出して笑う。
 なるほど、素直じゃない。
 紫子ちゃんはむっとすると、ぷいと顔を背けてしまった。
「蜘蛛の嬢ちゃんの夜が明ければ、胡氷さんも目を覚ますってわけだ。そりゃあいいこと尽くしでいい」
「…………祇明さんと胡氷さんのために、やるっきゃなし」
 蜘蛛の嬢ちゃんの名前を挙げないあたり、本当に素直じゃない。
 しかしまた笑うと俺が怒られそうなのでこらえた。
 遥か混色の空が、深い藍色に満たされていく。
 遠くに見下ろす魚の町の中心が星のように輝くのが見えた。



 紫子ちゃんとふたり、静寂の空を眺めていると、ようやく胡氷さんがここまで登ってきた。
 俺は振りかえると安心したように笑ってみせる。
「来てくれてよかった。ご足労痛み入りますぜ、お舘様」
 胡氷さんはまだどこか調子が悪いのか、時折小石につまずきそうになりながら俺と紫子ちゃんの前まで歩いてくる。
「いいの。……今年も魚凰宴祭って気分じゃなくて。ちょうどよかった」
 祇明さんの命の灯火が吹かれてより二年。
 あの日を入れて三度目の魚凰宴祭。
「あの日から、毎年この時期になると、頭が痛くて」
 涼しそうに微笑んで、胡氷さんは俺たちの隣で魚の町のほうを見下ろす。
 雪のように白い手で頭をおさえる仕草をみると、俺までどこか苦しくなるようだった。
 紫子ちゃんもおなじなのか、切なそうに目を伏せている。
「なあ、胡氷さん。そこの桜の木を覚えているか?」
 花弁はすでになく、葉桜を誇らしげに揺らす枝々のほうに顔を向ける。
「祇明さんがすこぶる気に入っていてさ。毎年のように花が咲いては花見をしてたっけなぁ」
 祭凰館の連中をかき集めてお祭り騒ぎ。
 匂いだけで酔っぱらって目を回すくらい弱いくせに、祇明さんは酒呑みのためだけに特上の酒を買ってきた。
 たまに喧嘩になっても暖かく見守り、なんなら自分も加わって、桜にも負けない鮮やかな色で笑う祇明さんの面影が、今でも鮮明に思い出せる。
「……ええ。懐かしい」
 祇明さんがいなくなり、祭凰館はずいぶんと静かになった。
 花見なんてする元気もないくらい沈んでいた。
「来年はさ、俺たちだけでも花見をしようぜ。魚凰宴祭にも出よう。うちと魚の町共同の祭りだってのに、いつまでも祭凰館だけ参加しないんじゃ悪いからな」
「そう。……そうね。……出られるといいと、願っているわ」
 暗く冷たい声音で答える胡氷。
 紫子が不安そうに「銀次郎」と小声で呼びかけてくる。
 あれから二年経ったとはいえ、花見や祭りを楽しもうぜなんていうのは、胡氷さんには酷だ。
 正攻法では治らない心の傷か。
 あいにく俺は大事なひとを殺してしまったことはないので、その痛みは分からない。
 けれど、俺には分からないくらい辛い痛みだってことだけはわかる。
「ごめんなさい、頭痛がひどいの。戻って休んでいるわね」
 そう言い残して立ち去ろうとする胡氷さん。
 なにか言葉をかけて引き止めなければと思った矢先、紫子ちゃんが俺の前に出る。
「祇明さんがくる」
 凛と、力強く、声。
 その一言は胡氷さんのゆったりとした歩みを止めるのに効果てきめんだった。
 振り返った胡氷さんの目は大きく見開かれていて、顔色はまた悪くなったように見える。
 俺は「あちゃあ」と額に手を当てる。
 蜘蛛の嬢ちゃんが祇明さんを連れてくることは、もうすこし隠しておきたかった。
 胡氷さんがどう思うのかは分からないけれど、あまり良くは考えないだろうと思う。
 だからギリギリまで隠しておくつもりだったのだが。
「……祇明が」
 わなわなと震える胡氷さんの唇から、すきま風のように細い声がもれる。
 紫子ちゃんは胡氷さんに一歩近づくと、力強くうなずいた。
「私たちは、もう知っている。……本当は蛇火ではなくて、胡氷さんが祇明さんを手にかけたことも、ぜんぶ」
「…………」
 胡氷さんの表情は驚きに満ちていた。
 その胸のうちに隠れた心は、決して穏やかではないだろう。
「夜の蜘蛛……知朱が、祇明さんを連れてくる。だから、お願いします。祇明さんに会って」
「……あの子。やっぱり、ただの娘じゃなかったのね。似ていたもの……」
 胡氷さんの声は平静を装っているが、震えていた。
「駄目よ。……それが本当だとしても、私は祇明に会うことはできない。……会わせる顔がない」
「それだけじゃないだろ? 理由」
 俺は口を挟む。
「胡氷さん。あんたは怯えているだけだ。祇明さんに会うことで、二年前まで心に住みついていた悪鬼がよみがえるんじゃないか、って。違いますかい?」
 胡氷さんは、月見領の刺客の万術によって呪いをかけられていた。
 『祇明に対してのみ憎悪を抱いてしまう』という呪い。
 そいつがまだ自分の心のなかで眠っていて、祇明さんと会うことで目覚めてしまうのが怖い。
 そのくらいのことは胡氷さんの様子から見て取れた。
「…………。銀次郎、紫子。祇明を殺したのが私と知っているのに、私を敵と思わないのね」
「そりゃ敵じゃないからな。あんたは俺たちのお館様だ」
「違う! 私はそんな器じゃない! 祭凰館に必要なお舘様は祇明だった! 代わりなんていない! ……祇明は、祇明しか、いなかったのよっ」
 胡氷さんの水晶のような瞳から一滴、透き通った色の雫がこぼれおちて地面に溶ける。
「そんな祇明を殺したのが私だと分かって、あなたたちは私のことをさぞ憎んでいるのでしょうね……」
 胡氷さんは後ろを向き、言葉だけを吐き出していく。
「紫子。あなたは蛇火を恨んでいたわ。それは祇明を殺したのが、あのひとだと思っていたから。……なら、あなたが私を恨むのは当然のことよね」
「違う。……違う、胡氷さん」
「銀次郎。私は長いこと事実を隠して、蛇火に辛い思いをさせてきた。なんだかんだであなたたちは仲が良かったものね。そんな蛇火を陥れてしまった私を、あなたは許す気になれる?」
「それで胡氷さんを恨むのは筋違いだ。蛇火のやつは――」
 ――胡氷さんのために身代わりになって。
 そう言おうとして、踏みとどまる。
 そんなことを口にすれば、胡氷さんはさらに自分を責め立ててしまうだろう。
「もう、私はいい。皆のこと、長く騙してしまった。やっぱり私のなかには鬼が住んでいる。悪い鬼は祭凰館にはいらない」
 そう言って去ろうとする胡氷さん。
 俺は刀を抜くと、困惑する紫子ちゃんを放っておいて空を斬る。
 あらわれるは意志の具現、ヤンマ斬り。
「銀次郎!」
 紫子ちゃんの声が聞こえる。
 大丈夫だ、狙いは外さない。
 見えない斬撃は胡氷さんへ向かい、迂回してその足下の土に僅かな亀裂をつける。
「紫子ちゃん!」
 怯んで足を止めたすきに、俺は紫子ちゃんの名前を大きく呼んだ。
 俺の突然の行動に呆気にとられていた紫子ちゃんははっとすると、己の周囲に煙とも靄ともつかない幕を現し、胡氷さんの周囲を取り巻くように操る。
「紫子ちゃんの煙の万術、その真骨頂は『先が見えなくなること』だ。……なぁ、あんたなら分かるはずだ。紫子ちゃんがいる限り、簡単には帰れない」
 煙のなかから胡氷さんがこちらを振り返るのが辛うじて見えた。
 俺は自分の手のひらに包帯を巻きなおし、手の目を塞ぎながら続ける。
 煙のなかで視界はいらないだろう。
「胡氷さんはさ、自分のなかに鬼が住んでいるって思ってるんだろ? だから祇明さんに会いたくないんだろ? なら立ち去る前に試していけよ。本当にそんなものが潜んでいるのかどうか」
 ぎゅっといつもよりきつく包帯の結び目をしめると、笑って言ってやった。
「……私は、胡氷さんに帰ってきてほしい。昔の強い胡氷さんに。祭凰館には祇明さんのように胡氷さんが必要だから。……そのために、やるっきゃなし」
 ふと、辺りに冷気が漂い始めるのを感じた。
 胡氷さんの万術の影響だ。
「……お願い。私のなかの鬼を、起こそうとしないで。もう誰も殺したくないの……」
 胡氷さんは涙声で、それでも毅然と言おうとしていた。
 まったく、かわいそうなお方だ。
 正体がわからぬ心の暗鬼に怯え続ける二年間は、どれほど辛いものだったろう。
 祇明さんだけに留まらず、他の仲間にまで同じ怨念を抱くかもしれない恐怖は、どれほど巨大だったろう。
 けれど暗鬼なんてもの、胡氷さんの心にいやしない。
 二年前、蛇火がやっつけてしまったんだ。
 口で言ってわからせるのは、さらに先を見据えた祇明さんに止められているけれど。
 せめて俺たちと戦わなければ逃げられないこの状況で、その得体の知れぬ暗鬼なんてものがいないことを教えてやらねばならない。
 よくよく考えてみれば、祇明と迷いなく話してもらうには必要なことだったのだ。
 これほどまでに暗鬼に怯えたままでは、祇明さんに会ったところで言いたいことを言う余裕すらあるまい。
「……紫子ちゃん。俺たちのお館様を助けるぞ」
「……」
 紫子ちゃんは黙っている。
 けれど、頷いてくれたことだけはしっかりと分かる。
 気合を入れてぎゅっと刀を握りしめると同時、俺の頬に冷たいものが触れて溶けるのを感じた。



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