闇に映える雪の色が、滲むように冷たく視界を包みこむ。
 夏も始まろうかという時分にしてはあまりに寒々しい。
 凪いだ風切山からは虫の声すら消えていた。



  ―『雪女』―



 煙のなかで、胡氷さんの持つ刀がきらりときらめいた。
 銀次郎は胡氷さんの刀を流すのみ。
 このまま粘れば、きっと祇明さんがやってくるまで持ちこたえられる。
 あとは私さえしくじらなければ――
「…………」
 しかしあまりの寒さに、すでに手足の感覚がない。
 体の芯まで凍てつく冷気。
 目もかすみ、もはや震えすら起こらない。
 堪えきれず地面に片膝をつくと、そこから氷になっていくようだった。
 銀次郎が私の異変に気づいて呼びかける。
「紫子ちゃん、大丈夫か!」
 それに私は、答えようとしても答えられなかった。
 吐いた息は雪より白く、吸った息は胸を氷らせ、言葉は口から出てこない。
「……煙を止めなさい、紫子」
 わずかに震えた声で、胡氷さんが私に言った。
「あなたの煙はあなた自身よ。煙を伝ってあなたの体は余計に冷えてしまう。……だから、お願い。煙を止めて」
 胡氷さんのいたわるような声を聞き、体はこんなに冷たいのに目頭ばかりが熱くなる。
 気丈で強かで優しい胡氷さん。
 祭凰館の仲間に刃を向けることは絶対になかった。
 ときどき厳しいことも言うけれど、ひとを傷つけるようなことは決してしない。
 そんなひとが私たちに刀を向けている。
 大好きな親友だった祇明さんから逃げるために、苦しい思いで戦っている。
 それは、どれほど辛いことだろう?
「紫子ちゃん、煙を止めるんだ。なぁに、胡氷さんは俺に任せとけって」
「…………ぎんじろう」
 掠れた声が喉からこぼれる。
 銀次郎に任せてしまってもいいのだろうか?
 この寒さに負けて煙を仕舞ってもいいのだろうか?
 けれど、もしも。
 もしも、私が諦めたせいで、胡氷さんが逃げ出すことに成功してしまったら、何も変わらない。
 二年間も機会を待ち続けた祇明さんの願いはどうなる?
 二年間も苦しみぬいた胡氷さんのこれからはどうなる?
 自分のお館様たちがこんなに辛い思いをしてきたのに、私たちが支えてやれなくてどうする。
「……嫌だ」
 私も一緒に苦しませてほしい。
 このくらいの痛みでは、むしろ足りない。
 まだまだ胡氷さんを支えてあげたい。
 だから、嫌だ。
 私ばっかり諦めて楽するなんて――
「嫌だぁっ!」
 出しうる限りの煙をありったけに撒き散らす。
 雪より白く、雪を白く、もっと白く。
 それと同じくして、感覚のなくなった体がまた冷たさを感じる。
 冷気を上回る冷気が、私を襲う。
「やめろって、紫子ちゃん! 無茶すんな! 死ぬぞ!?」
 銀次郎が取り乱すのは珍しい。
 滅多に聞けない銀次郎の声色に、私はぷっと吹き出した。
「……大丈夫。このくらいでいい。このくらいがちょうどいいんだ」
 しゃんと背筋を伸ばし、足を開く。
 そして力強く笑う。
 冷たくて分からないけれど、たぶん上手に笑えているはずだ。
「このくらい、お舘様の辛さに比べたら、なんてことはなし」
 いいよ、胡氷さん。
 逃げたっていいんだ。
 それだけ辛いんだから、逃げるななんて言えっこない。
 だから、私たちが代わりに抑えてあげるよ。
 勝手に逃げ出そうとしてしまう、その足を。
「祇明さんはかならずくる。だから、それまで。たったそれだけ!」
 あとはもう、笑っててやる。
 体力ももう限界だけれど、そんなものはしらない。
 体のどこかが壊れたってやめるもんか。
「……はははっ。なぁお舘様よ。紫子ちゃんはこんなに強かったかね?」
 そう言う銀次郎も限界が近そうだ。
 言葉から元気がなくなっている。
「…………」
 胡氷さんはなにも言わない。
 すすり泣きのみ煙のなかから聞こえてくる。
「うおっと!」
 銀次郎の声と共に、刀同士がぶつかり合う金属の音が響く。
 胡氷さんの攻撃を流したようだ。
「はは、そうかよ! なら存分に相手をしてやるぜ!」
「……ごめんなさい」
 刀を打ち鳴らす音が、徐々に、徐々に増えていく。
「…………ごめんなさいっ」
 謝りながら、攻撃する胡氷さん。
「なにも謝ることはないぜ、胡氷さん。俺が全部受け止めてやるから」
 銀次郎だって、もう手がかじかんで、刀を握る力なんて残っていないはず。
 もう長くはもたない。
 そう心配した矢先だった。
「しまった!?」
 地面に刀が落ちる音がした。
 銀次郎の手から刀が抜け落ちたようだ。
「銀次郎!」
 はっとして、胡氷さんの位置を探る。
 私のほうに向かってきているようだ。
 私を叩き、煙を消して逃げるつもりだろう。
 私は慌てて袖に隠し持ったクナイに手をかけるが、その感触がまるで伝わってこない。
 それどころか指すら動いていないらしい。
 それでもなんとか握ろうとするが、クナイは私の手から滑り、カランカランと音を立てて落ちてしまう。
 胡氷さんの姿が、煙のなかからぼんやり浮かび上がってくる。
 私はもう一本のクナイに手をやるが、もう間に合わない。
 もう胡氷さんを止めきれない……!
 ぎゅっと目をつむり、心のなかで胡氷さんと祇明さんの顔を浮かべる。
 その刹那。
「――煙を仕舞え、紫子」
 男の声で囁くように聞こえた言葉。
 胡氷さんばかりに集中していて、男の接近に気づかなかった。
 間近に迫った男は私を抱きかかえるようにして、冷えた体を暖めてくれる。
 そして空いた片手で刀を振りかざし、迫る胡氷さんの刀を受け止めた。
 その瞬間、私は全身の力が抜けてくずおれる。
 万術で生み出した煙が一瞬にして消え去っていく。
 煙の間から初めに見えたのは、こげ茶色の着物だった。
 地味な色合いの着物を着た男は、私の頭に手をやると、積もった雪を払ってくれる。
「よく頑張った」
 あいかわらず愛想のない声に、私はゆっくりと見上げていく。
「……蛇火……っ」
 蛇火は胡氷さんの刀を弾くと、私から離れて胡氷さんと向き合った。
「蛇火、おまえ!」
「待たせた」
「ははっ、あははっ! なにが待たせただよ? おまえと待ち合わせなんてしてたかな」
 銀次郎の顔からは血の気が失せていて、幽霊のように真っ白だった。
 きっと私も熱を失って同じような顔になっているのだろう。
「……蛇火。久しぶりね」
「……見ない間にやつれたか」
 銀次郎はそろりと私の隣にくると、私の手を強く握った。
 そして顔をしかめた蛇火と、涙の筋が残った顔の胡氷さんを見守る。
「妹がくるそうだ。会ってくれ」
「……私には、あの子に会う資格なんてないの」
「会うのに資格がいるのか。知らなかったな」
「……蛇火。あなたは、私が憎いでしょう? だからここに来たんでしょう?」
「憎んでなどいない」
「嘘よ。私はあなたの妹を殺してしまった」
「そうか。知らなかった。俺はてっきり、すでに胡氷が仇を討ってくれたものと思っていたが」
 蛇火は刀を納めると、小さく口元を緩ませた。
「違うのか?」
「…………。私の心には、鬼が住んでいる。紫子と銀次郎を見て。……私があんなひどいことをしたの。祇明を殺したのも、確かに私」
 鬼でしょう? と、胡氷さんは疲れきったように瞑目した。
 蛇火は鋭い目つきでこちらをちらと見る。
「そうか。ならば、やはりあなたは祇明を殺してなどいない」
「え……?」
「祇明を殺したのは心に巣食う鬼だ。あなたはこの二年、ずっと後悔をしていた。鬼がそんな殊勝な真似をすると思うか」
 胡氷の心にはもう鬼などいないと、仇はもう討ったのだと、蛇火はきっぱりと言った。
「……私の心に、鬼は、もう……」
 囁くように呟くと、胡氷さんはぶんぶんと頭を振った。
「そんなはずはない! 私はたったいま、紫子と銀次郎を危ない目に遭わせてしまった! そんな私が、鬼じゃないなんて……」
「…………。だそうだが、胡氷を恨んでいるか?」
 私は問われて、力強く首を振った。
 銀次郎も笑って同じように緩く首を振る。
「誰一人、恨んでなどいないそうだ。……だからもう、自分を許してやれ」
「…………っ」
 蛇火はふと、すぐそこの坂道に目をやると、すこし笑って目を閉じた。
 そちらのほうに耳を傾ければ、誰かが走ってくる音がする。
「しかと胸のなかの鬼を探してみることだ。きっと安心する」
 そう言って、蛇火は私たちのほうへ近寄ってきてから、そちらのほうを眺める。
 私の心臓が、とくんと大きく鳴った。
 全身が脈打つようにして、熱を取り戻していく。
 予感がした。
 懐かしいひとの香りが、すぐそこから香るような――



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