また明日。
 その言葉を何度も繰り返した。
 すこしずつ時間が過ぎていって、いつかはまた胡氷に会える。
 その想いがあったから、私は待つことができた。
 笑顔の練習は欠かさなかった。
 みんなに会うことができたら、めいっぱいに笑いたかったから。
 ねえ。
 二年、かかったよ。
 待たせてごめんね。



  ―『大好きな人たち』―



 息を切らして坂を駆けあがっていく。
 月に照らされた雪はよく滑り、何度か転んでしまった。
 それでも白く染まった道がはっきりと見えるので、安心して足を踏みだすことができる。
 ずっと考えていたよ。
 会いたかったよ。
 私の足が最後の一歩を踏み出すと、強い風が私をすり抜けていく。
 目を開くと、満開の夜空から星が降るように、雪がちらついている。
 雪で白く染まった葉桜。
 深い青の夜空に、よく映えていた。
 そして木の下でなびくのは、葉桜と同じ色の長い髪。
 懐かしい面影が、ぶれる世界でただひとつ、私の心に焼きついていく。
「やっと、会えたね」
 息は切れるけれど、ちゃんと言葉になった。
 それが嬉しくて、思わず顔がほころんだ。
「……祇明、なの? ……本当に……?」
 しばらくは目を丸くしてこちらを見ていたけれど、はっとして顔を背けようとする。
「だめだよ。しっかりこっちを見て!」
 胡氷は動きを止めるが、それでもぎこちなく私から視線をそらした。
 私は困ったように笑ってみせる。
「それとも、私のこと、嫌いになっちゃった?」
「そんなわけっ……」
 否定しながら、しかし胡氷は動かなかった。
 自分が思っていた以上に追いつめられた胡氷の姿に、私は痛む胸に手を当てた。
 知朱ちゃんが来てくれたこと。
 紫子ちゃんや手の目の兄さんが頑張ってくれたこと。
 蛇火が私の言った通りに動いてくれたこと。
 みんな想いはいっしょだ。
 そう思うと、ちくちくとした胸の痛みが雪解けのように消えていった。
 みんなの想いに後押ししてもらって、私は胡氷の名前を呼ぶ。
「胡氷?」
 呼びかけながら、胡氷の近くに歩いていく。
「……来ないで。私は、二度もあなたを殺したくない」
「私が親友だから?」
「そうよ……。けれど、私はあなたを恨んでしまった。鎮めようにも鎮まらない、無限の怨念。あなたの顔を見るたびにそれが湧きあがる」
「知っていたよ?」
「なら、こっちへ来ないで!」
 胡氷は刀を私に向けた。
 けれど、二年前のような鋭い剣幕はどこにもない。
 私は首と肩の間に通る刃を抜け、胡氷の目の前に立つ。
 胡氷の握る刀はかたかたと震えておさまらない。
「……どうしてあなたは、あの頃から変わらずにいられるの? 私は、こんなにも変わってしまったのに」
「そんなの、決まっているよ」
 私は膝を折って、胡氷の前で屈んだ。
 俯いた胡氷の瞳と、私の視界がかちりとぶつかる。
「胡氷に会いたかったから」
 胡氷は目を見開いて、しっかりと、私の顔を見た。
「どう? 私の顔、まだ嫌い?」
 私は笑った。
 にかっと笑った。
 胡氷の瞳からは何粒も、何粒も、大きな雫がこぼれていた。
 胡氷はくずおれて、両手で顔を覆い大きな声で泣き出した。
 落とした刀がやわい雪に埋もれる。
「……ごめんなさいっ、本当にごめんなさい! 私はあなたが大好きだったのに、私があなたのことを――」
 本当は。
 本当は、私が胡氷に会いたかったように、胡氷も私に会いたかったのだと思う。
 心に鬼が住む前の、私のことを友達として見られる自分に戻って、たくさん謝りたかったんだろう。
 泣かないと決めていたのに、もう涙が溢れてきた。
「大丈夫。胡氷も変わってなんかいない。私がずっと想っていた胡氷のままだよ」
 たまらず私は胡氷の体を抱きしめる。
 震えていて、とても冷たいけれど。
 素敵な胡氷はやっぱり素敵なままなのだと、そう実感した。
「これで、仲直りだね」
 私たちはふたり揃って、大きな声で泣きつづけた。



 悪い夢から覚めた。
 きっと、そういう気分だ。
 私はふと立ち上がると、そこに立っていた三人の姿を見つめる。
 ごしごしと袖で涙を拭って、笑いかけた。
「みんな。お世話になりました!」
 手の目の兄さんは片手を挙げて応えた。
 紫子ちゃんは涙を堪えきれずぐずぐず泣いていた。
 そして蛇火は、やはり私のよく知る仏頂面だった。
 みんな、変わらない。
 変わっていない、私の仲間。
「……あれれ。てっきり胸に飛び込んできてくれると思ったんだけれどなぁ」
 黙っているみんなに、私は小首をかしげた。
 手の目の兄さんがおかしそうに笑い出す。
「いいよ、俺は。紫子ちゃんはどうだい?」
「わ、わたっ、私はっ……」
 しゃくり上げながらで上手に喋ることができない紫子。
 赤くなった鼻から頬まで鬼灯色に染めて、握りこぶしでぐいと顔を拭いた。
「…………っ」
 紫子ちゃんは言葉を言葉にできず、ぷいと後ろを向いてしまう。
「あらら」
 困った。
 紫子ちゃんにも嫌われているのかな。
 冗談交じりに思っていると、紫子ちゃんはようやく一言だけ喋る。
「……もう一度、お会いしたかったですっ……」
 紫子ちゃんは震える声で、そう言ってくれた。
 胸にじんわり暖かいものが広がっていく。
 いったん泣きやんだのに、また泣いてしまいそうだった。
「祇明」
 と、蛇火が私に声をかける。
 もう泣くまいと、もう一度だけ目元を拭って、蛇火と向き合った。
「良かったな」
 ただ一言だけ、そう言った。
 蛇火は口数が少ないけれど、そこに込められた想いは十分すぎるほど伝わる。
 私もだてに蛇火の妹をやってはいない。
「うん」
 手を後ろに回して、大きく一回うなずいてみせると、蛇火も嬉しそうに笑ってくれた。
 ……すこしだけ、だけれど。
 そのほんのすこしだけで、私の胸はいっぱいになった。
「もう行け。少ない時間を無駄にするな」
「……うん!」
 蛇火は手の目の兄さんに声をかけ、紫子ちゃんの肩を叩き、一足先に坂道を下っていった。
 紫子ちゃんが時折こちらを振り返るので、私はずっと手を振っていた。
 三人の姿がすっかり見えなくなると、すこしだけ心細くなる。
 もう、私がみんなに会うことはないのだ。
 けれど、あっさり別れられて、よかった。
 このままだと、けっきょく泣いてしまうところだったから。
 それでは、お舘様としてかっこわるいよね。
 私は、ようやく泣きやんだらしい胡氷のそばに立ち、屈んだ彼女に手を差し伸べた。
「行こう!」
 胡氷は赤くなった目で私を見ると、そっと私の手を取った。



「私ね。この二年、ずぅーっと叶ってほしかった願い事があったんだ」
 胡氷の万術が止まり、溶け出した雪道をのんびり手を繋いで歩いていく。
「もう一度だけでもいいから、胡氷と二人で歩けますようにって!」
 叶っちゃったなぁ、と握った手をゆっくり振る。
 まだ気まずいのか、胡氷は黙ったまま、しかし胡氷らしい笑みを浮かべていた。
 けれど、時折その顔に黒い影が落ちる。
「……祇明」
「ん? なに?」
「私は、あなたを殺してしまった」
「うん。でも、それはさ」
 私がなにかを言う前に、胡氷は緩く首を振る。
「取り返しのつかない、大変なことをしてしまったの。今はもう、心のなかに鬼がいないことも分かったけれど、鬼のせいにしちゃいけない。……全部、私の心が弱かったために招いた事態」
「…………」
 そんなに気にすることじゃないよ、と笑おうとしたけれど、できなかった。
 そんな言葉で胡氷が納得するほど、彼女は気楽に生きていない。
 私はそれを長い付き合いでよく分かっていた。
「祇明。私は、生きていてもいいの?」
「……だめって言ったら信じるの?」
 胡氷は不意に立ち止まる。
 私は慌てて胡氷の顔色をうかがうが、その顔は気丈なままの胡氷だった。
「そうね。言うはずがないって、わかってる」
 胡氷が空を見上げるので、私も隣で天を仰ぐ。
 満天の星空。
 溶けた雪が小川を作って、せせらぐ音が聞こえる。
 だんだん空気も暖まってきたようだった。
「生きてね」
 私は、小さく呟いた。
 こちらを見る胡氷と目が合う。
「ぜったい、ぜったいに生きてね。暗く生きてもだめ。明るく生きてほしいな」
「……。私、祇明に謝らなくちゃいけないことがあるの」
 胡氷は改まって私に言う。
「ずっと後悔していたつもりだった。あなたを殺したことを。……けれど本当は、怯えていただけだった。後悔も、反省も、目先の恐怖に震えるばかりで忘れてしまっていた。……あなたの手が私を包んだとき、そう気づいた」
「うん。そっか」
「そのことを、ごめんなさい」
 しおらしい胡氷はいじらしく、下げた胡氷の頭をそっと撫でてみる。
 さらさらとした優しい感触もまた懐かしかった。
「あなたは、明るく生きてほしいと言ってくれたけれど。……もうすこしだけ、反省したり、後悔をする時間がほしいの。今度は上手にできるはずだから」
 胡氷はやっぱり強くて、やっぱりすこし憧れる。
 駄目かしら、と困ったように尋ねる胡氷に、私は黙って首を振る。
「そうだよね。明日からけろっとしてたらさすがの私だって、んん? って思っちゃうもん! ……あっ! 私を殺したくせにーとかじゃなくて、胡氷らしくないなーって意味だよ? 私なんかごはんをつまみ食いして怒られたときも、あっという間に忘れちゃって……。って、そうじゃなくて、えっとね」
 慌てて弁明をする私がおかしいのか、胡氷はにこりとした。
 その微笑が焦りをそぎ落とし、私を落ち着かせてくれた。
「たくさん後悔して、うんと元気になってくれたら、私は嬉しいよ」
「ええ。……ありがとう」
 そう言って前を向いた胡氷と、もう一度歩き出す。



 しばらくして祭凰館につくと、懐かしい、可愛い門番に出会った。
 楓ちゃんが眠たそうに目をこすり、椿ちゃんがそれを支えている。
 その隣には聡流くんもいた。
 真っ先に私たちに気づいた椿ちゃんが「あっ」と声を漏らす。
「はわわ、本当に祇明さんですー! 姉様、姉様!」
「……はっ! ねむねむ……。……はぇっ!? 祇明さん!?」
 私のことをしっかりと見つけて、二人の可愛い門番はうさぎのように飛び跳ねた。
「あやややぁ! 夢じゃないんよね!? はわぁ、お懐かしやぁ! おかえりなさいませっ、祇明さん!」
「おかえりですー、祇明さん!」
「うん、ただいま!」
 二人とも元気そうでよかった。
 目を細めた私に、二人もめいっぱいの笑顔で返してくれた。
 けれど、すぐにしょぼんと肩を落とす。
「あの……。すいませんでした! 私たちが、しっかり見張りをしてたら、もしかしたら!」
「ごめんなさいー!」
 二人はぺこりと頭を下げるので、私は「大丈夫だよ」と屈んで言う。
「きっといつか、あの日の失敗が強さに変わるから。ほら、しっかり!」
「はいっ!」
「です!」
 しゃんと立つ二人を見て、笑った私を見た胡氷まで笑顔が伝染していく。
「胡氷もね」
「え?」
「いつか、強くなるよ!」
「……ええ。そうね」
 ふと気づけば、聡流くんの姿がない。
 きょろきょろと辺りを見回すと、提灯の灯りでいっぱいの祭凰館の廊下奥に姿を見つけた。
「聡流くーん!」
 私は呼びかけて追いかける。
 聡流くんは立ち止まってくれたので、すぐに追いつくことができた。
「一言もなしなんて冷たいんじゃない?」
「いえ。僕は、一目見られただけで満足ですので」
「かっこいいこと言うねー」
「祇明殿は変わりませんね。……安心しました。心底から」
 聡流くんにも笑顔がうつっていたらしく、目を閉じてじっと笑んでいた。
「さて、祇明殿。いつ時間切れになるか分かりません。僕なんぞと話をしている場合ではない。まだすべきことが残っているのではないですか?」
「え? ……うーん? どうなんだろう」
 もう粗方満足してしまったつもりだ。
 聡流くんはこちらを振り返って、私を見上げる。
「どうか、悔いの残らぬように」
 そう言って聡流くんは一礼すると、どこかへ行こうとする。
 私はその背中に、忘れないように言葉を投げかけた。
「お世話になりました!」
 すこし足を止めるが、またすぐに歩き出す。
 聡流くんも、いつもああいう感じだった。
 だから仕方ないのかもしれないけれど、なんだか寂しかった。
 追いついてきた胡氷に気づいて、手を取る。
「やり残したこと、思い出した! 行こう!」
 胡氷の手を引っ張って、私は祭凰館の奥へと駆ける。
 一瞬だけ、視界がぼやけるのを感じた。
 ……そろそろ、時間なのだろう。



 お舘様の部屋は、提灯がない。
 これは私の意向だった。
 このほうが月がよく見えるからだ。
 外と内とを隔てる中心で、私は胡氷といっしょに手すりに手をかけ、空を眺めていた。
 綺麗な満月。
 二年、さんざん見てきた星や月も、こうして眺めるとぐっと胸に詰まるものがある。
「いろんなことがあったね」
「ええ、本当に」
「私、もう悔いはないよ。安心して旅立てるね」
 私は口をついて、はっとした。
 思わず口元をおさえる。
「そういえば私の生まれ変わりって知朱ちゃんで、ということは私は知朱ちゃんのなかに旅立つのかな?」
 私はうーんと唸る。
 難しいことはよく分からない。
 なので、ぴんときた台詞を言う。
「じゃあ、知朱ちゃんのなかで、胡氷をずーっと見守っていられるかも!」
「知朱……。そう、あの子にも迷惑をかけてしまったわね」
 そう言う胡氷からは、憂いがない。
 私は安心した。
 あとは、ひとつだけ。
 やり残したことは、これでおしまいだ。
「祭凰館がお舘様、祇明! ここに宣言します!」
 私はぴっと両手を伸ばし、背筋を伸ばしてしゃんとする。
 胡氷は眉をひそめてこちらを見た。
 私は向き合って、真剣な表情を作る。
「今日このときをもって、私は祭凰館のお舘様を下ります!」
 そして! と、胡氷を指差す。
「新たな祭凰館のお舘様として、胡氷! あなたを任命します!」
 ぽかんとする胡氷。
 私は照れ隠しに、再び空のほうを見てしまう。
「……なんて、やってみたかったんだ。これで名実ともに、胡氷が私の意志を継ぐお舘様になった」
 意志は継いでも継がなくてもいいんだけれど、と付け足して笑う。
 胡氷はくすくすと笑った。
 相変わらず丁寧で上品な笑い方だった。
「そうね。この二年、祭凰館にお舘様はいなかった。お舘様らしいことをなにもしてやれなかった」
 胡氷は胸に手を当て、祈るように目を伏せた。
「引き受けたわ、次のお舘様。あなたの代わりはしっかり果たす。やっぱりやめた、なんて、言わないわよね」
 よかった。
 これで、本当に未練はない。
 祭凰館は、胡氷は、救われたんだ。
 そう思った矢先、私の体が蛍みたいに光っているのに気がついた。
 視界がすこし眩むなか、分かった。
 もう、時間がないことを。
「……祇明」
「あはは。時間みたいだね。……。辛い?」
 胡氷は目を閉じて、静かに首を振る。
 その瞼の間から、涙が一滴、流れ落ちたのが見えた。
 そうだね。
 お別れは辛いものね。
 けれど、それは未練になる辛さでも、引きずるような辛さでもない。
 胸に持ったままでいて、いつか次に繋げられる辛さだ。
 だから、安心だ。
「それじゃね、胡氷。大好きだった!」
 私は、こんなに近くにいる胡氷に手を振った。
 胡氷は鼻を鳴らして、笑おうとする。
 ほら、がんばって。笑ってみせて。
 そうして出来あがった胡氷の笑顔は、不器用で、ぎこちなくて。
 涙にぬれているけれど、見たことがないほど綺麗な笑顔だった。
「さようなら、祇明。私も、あなたが大好きだった……!」
 その声を最後に聞いて、私も笑ってみた。
 視界が真っ白に染まり、なにも見えなくなると、胡氷の泣き声だけが聞こえてきた気がした。



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