ずっと眠っていた気がする。
 けれど、ぼんやりと覚えていることがある。
 祇明と会った祭凰館の者たちの豊かな表情だ。
 そして特に焼きついているのは、胡氷の笑顔と、泣き虫な大粒だった。



  ―『暁の蜘蛛』―



 意識を取り戻すと、見覚えのない天井がうす暗くぼやけて見える。
 畳の上に敷かれた布団はふかふかで暖かい。
 心地よさを前に、とても起きようなどという気にはなれなかった。
 だが、ずっとそうしているわけにもいかない。
 ここはどこかを確かめるべく、私は起き上がった。
 障子戸を開き、黒い幕を抜けると、これでもかと飾りつけられた提灯が私を迎えた。
 すこし眩しくて目がくらむ。
「……祭凰館か、ここ」
 橙色の揺れる灯火の数々は、まだ夢のなかにいるかのような幻想を抱かせる。
 ふと、廊下の奥に目が行った。
 私はなにかに導かれるようにして、ふらふらと廊下を進んでいった。



 お舘様の部屋に入ると、開かれた戸の向こうで空が白んできているのが目に入る。
 そして、ぼんやりと遠くを眺める胡氷がその場所に立っていた。
 その立ち姿は儚く、突けば壊れてしまいそうな危うさがある。
 細い髪のかかった瞼を閉じ、何事かを深く考えているようだ。
 このまま気づかれないうちに立ち去ったほうがいいだろうか。
 そう思い踵を返そうとすると、胡氷は優しく冷たい声を出した。
「ありがとう」
 胡氷はこちらを振り返ると、笑っていた。
 心からの笑顔が、また美しく力強い。
「そして、ごめんなさい」
 胡氷はうやうやしく頭を下げた。
 私は壁に寄りかかってため息交じりに答える。
「気にするようなこと、なにかされたっけな」
「器が大きいのね」
「あまり持ち上げんなよ。そういうのには慣れてない」
 私は自分の髪を指でいじりながら答える。
 よく見ると、胡氷の目は赤く、くまも出来ているようだった。
「……眠れてないのか?」
「ええ。眠ろうと思ったのだけれど、胸の高鳴りがうるさくて」
 私は胡氷の隣まで近づいていく。
 祇明が最後に立っていた場所だった。
 手すりの向こうに広がる未明の空から、じきに暁が顔を出す。
「あなたは、よく眠れたかしら?」
「ああ。あれは最高の布団だった。すげえな、お館ってのは。びっくりした」
「らしいわね」
 胡氷は笑う。
「祇明もそう言っていたわ」
 しまったと口を抑える。
 またやってしまったか。
 いまの私は祇明ではなく知朱なのだ。
 もっと祇明に左右されず、私らしくありたい。
 胡氷は私の心を読んだかのように、綺麗な声をこぼす。
「分かっている。どれほど似ていても、あなたは知朱さん。祇明じゃない。……あなたは、祇明に似ているって言われることが辛い?」
「辛くはない。ただ、やたらな期待をされるのはごめんなだけだ」
 祇明が私の体を使ったときの記憶が残っている。
 そのときの祇明の心の揺らぎも、はっきりと思い出してきた。
 その記憶のなかで、まっすぐ胡氷の瞳を見つめる祇明の視線に惑いはなくて。
「強いひとだなって、思ったよ。私なんかよりも、ずっと強いひとだった」
 胡氷は嬉しそうに、しかしすこし寂しそうに、私の顔を見下ろしていた。
 私に祇明の姿を重ねているのだろう。
 別に悪い気はしないし、好きに見てくれて構わない。
 だが、同じ人物に見られるのだけはごめんだった。
 今の私では祇明に敵わないから。
「そうね。……けれど、今度は私が祇明のように強くならなければいけない。お舘様として、皆を引っ張っていかなくてはいけないの」
 胡氷の決意の表情に、暁の光が一筋、浮きあがった。
 夜明けの風はぬるく私たちの髪を揺らす。
「綺麗な朝日ね」
「ああ」
 胡氷はこほんとひとつ咳をした。
 そして、私を見る。
「すこし遅くなってしまったけれど、あらためて訊く。祭凰館に来てくれないかしら」
 胡氷の、凛と通る冷たい声。
 けれどその冷たさは、厳しいものではなく、淡雪のように優しい響きを持っていた。
 答えなら決まっていた。
 私は胡氷から一歩引き、膝をついてみせる。
「よろしくお願いします、お舘様」
 丁寧な言葉づかいは慣れないけれど、胡氷は笑ってくれた。
「これからよろしくね。知朱さん」
 朝日が眩しい。
 私の心にも暖かい光が流れこんでくる。
 きっと私は、夜の蜘蛛のまま死んでいくのだろうと、そう思っていた。
 けれど、今なら私にも光が見える。
 祭凰館から望む満開の空が、夜の蜘蛛に朝を連れてきたようだった。



 お舘様の部屋を出てすこし歩くと、蛇火と銀次郎、紫子の三人と出くわした。
「よう、蜘蛛の嬢ちゃん。ようこそ祭凰館へ!」
 大げさな身振りで銀次郎はそう言うので、私はすこし笑う。
「おう、厄介になる」
「ははっ。……なんか一仕事終えたって気分だなぁ」
 と、紫子がずいとこちらに迫る。
 私はすこし驚くが、紫子の言葉を待った。
 不意に紫子ちゃんは手を差しだしてくる。
「…………ありがとう」
 赤い目をしたまま、ぶっきらぼうではあるがそう言うので、私は紫子の手を取った。
 そしてそそくさと私から離れて銀次郎の背につくので、打ちとけるまではまだかかりそうだと先が思いやられる。
「それはそうと、おい、蛇火」
「なんだ」
 蛇火はいつものように私の呼びかけに応じる。
「おまえ、狭間の檻に閉じ込められてたんじゃないのかよ?」
 祇明として蛇火を見かけたときから不思議に思っていた。
 しかし蛇火はなんてことはないと言うように肩をすくめる。
「狭間の檻は罪人を閉じ込める結界だ。俺は祇明を殺していないので、罪人ではない。出る気になればいつでも出られた」
 罪人を装っていただけだ、と蛇火は言う。
「じゃあ、私と一緒に出ればよかっただろ?」
「はじめは事が終わるのを待とうと思った。が、できなかった。妹のことが心配でな」
 蛇火は、ほんのすこしだけ笑う。
「俺も、人並に兄だったらしい」
「……そっかい。じゃあ、蛇火も祭凰館に戻ってくるのか?」
「そうだな。二年も住んだが、もうあそこにいる理由がない。荷もすでに運んである」
 蛇火がそう言うと、銀次郎が愉快そうに声を上げて笑う。
「俺たちに手伝わせるもんだから、そりゃあもう早く運び終わったぞ。おかげで余計に疲れた気がするね」
「そいつはご苦労さん」
「なぁ、蜘蛛の嬢ちゃんはどこの部屋を使うんだ? 自慢じゃないが今の祭凰館はがらんがらんだ。空き部屋もたくさんある。選び放題のより取り見取りだぜ」
 部屋の場所。
 まったく頭になかった。
 どうしようかとすこし悩むと、頬をかきながら答える。
「朝日を拝める部屋がいいな」
「あはは! そりゃいいや、蜘蛛の嬢ちゃんにぴったり!」
「絶対に朝日が見える部屋がいい!」
 快活に笑う銀次郎にすこしむっとしながら意固地になる。
「そうか」
 蛇火にも笑われてしまったので、いよいよ穏やかな気分ではない。
「……蛇火。あとで絶対に剣で勝ってやるからな」
「そうか。待っていよう」
 そう言って蛇火は廊下の先へ歩いていく。
「来い。部屋を決めよう」
 蛇火についていくと、銀次郎と紫子も私の隣で歩き出した。
 私はみんなと同じところに立てたのだと思えば、すこし嬉しい。
 きっと私には、祇明ほど上手くはできないだろう。
 それでもすこしずつ、祭凰館に住む者として、役に立てるようになれたら良いと思う。
 祇明の残した糸を手繰って行き着いたこの場所で、私も祇明と同じように生きてみよう。
 ふと気づけば、夜の蜘蛛だった頃の私は、もうどこにもいなかった。



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